保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(33)
トラウトマン和平交渉にみる日本軍人の「本音」

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   日中戦争は、日本軍部の傲岸な戦争観が随所に垣間見える戦いであった。中国国民党を取材していて、私は何度もそのような思いを持った。あえて語っておきたいことがあるのだが、1937(昭和12)年11月頃から始まったドイツの中華大使であるオスカー・トラウトマンの仲介の和平交渉にもその例が見える。

   この交渉には可視の部分と不可視の部分があり、不可視の部分についてはこれまで充分に検証されてきたとは言えない。あえて今回はこの部分についてふれておくことにしたい。この部分に入り込むと見えてくるのは、日本の軍人たちの本音が どこにあるかがわかってくる。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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当初の日本側の案は「微温的」だったが...

   トラウトマンの仲介による和平交渉は、日本側が中国側に条件を突きつけるところから始まった。軍事的に日本側が有利なのだから、というのがその理由であった。中国側は日本の侵略を国際連盟に提訴していることもあり、講和には乗り気とは言えないにしても、日本側がどのような条件を求めてくるかについては相応の関心は持っていた。11月段階では日本側が示した案は、華北に非武装地域を作るとか、排日政策の停止、あるいは関税の引き下げなどであった。いわば微温的な内容であった。

   むろんこれには理由があった。日中戦争は陸軍の中にも二つの流れがあった。一つは、中国一撃論で中国に一撃を加え、そして日本の制圧下に置こうとする一派であった。参謀本部の作戦部の中堅幕僚を中心に急速に軍内にその影響力を高めた。作戦課長の武藤章などが、この派の代表者であった。これに対して参謀本部の戦争指導班の幕僚は反対でまとまっていたのである。それを代弁していたのは、参謀次長の多田駿である。多田は省部の会議で、対中戦争に深入りすべきではない、日本軍の真の敵はソ連であると熱弁をふるっている。しかし軍内は次第に主戦派が主導権を握ることになった。

   トラウトマンは当初、「このような案ならば」と楽観的に考えていた。蒋介石政府は基本的にはどのような案であれ、侵略には対抗するとの方針を固めていたにせよ、日本側がどのように考えているかは知っておく必要があり、トラウトマンの示してくる案にはそれなりの対応をしている。軍事的にこの段階では日本軍との間に開きがあることが明白であり、それ故に政治交渉に関心を示す必要があったともいえた。

「爾後国民政府を対手とせず」声明で和平の窓閉じる

   実際に和平交渉とは別に、日本軍は中国での戦闘行為を続け、12月に入ると蒋介石政府の首都である南京を陥落している。この折に不明朗な史実が起こったことはよく知られている。南京陥落という現実を確認して、日本の軍部は講和の条件を一気に拡大した。新たにいくつかの条件を加えたのである。その中に二つの重要な条件があった。それが「満州国の承認」と「賠償の要求」であった。中国の主権そのものを根本から問う内容だったのである。蒋介石政府はこの条件に返事を返さなかった。

   満州国の承認は中国にとってとうてい受け入れることのできない条件であった。加えて賠償の要求は、中国に対する侮辱に通じていた。蒋介石政府は、 日本が求めた期日までに回答を返さない。日本政府は誠意がないと交渉の打ち切りを宣言した。それが1938(昭和13)年1月16日の近衛首相による「爾後国民政府を対手とせず」という声明であった。日本は自ら和平の窓口を閉じたのである。

   戦後、近衛は「自分の政治的失敗の最大のものは、あの声明であった」と述懐したが、それは当たっていた。和平交渉を進める一方で、戦闘を継続して部分的勝利を得るや、それを元に条件を上積みしていくなら、和平工作は隠れ蓑になってしまうに等しい。ともかく、この和平交渉は歴史の闇の中に消えていったのである。そしてここまでが可視化された史実である。この背景を探ること、つまり不可視の歴史上の動きを分析することが、この連載の主目的である。

   近現代日本の草創期の史実の流れを追いながら、可視と不可視の狭間を追いかけているのだが 、このトラウトマンの和平工作には二つの不可視の史実が隠されている。その視点を改めて整理しておくことにしたい。その二つとは次のような史実である。

1. 日本軍と賠償の関係(戦争とは賠償を取るための行動である)
2. 中国側が描いていたこの時の国際的な闘争

   この二つを分析していくと、私たちは近代日本に何が欠落していたか、それが浮かび上がってくる。そして歴史の本質は意外なほど隠されていることにも気がつくのである。その確認を試みたい。(第34回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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