保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(33)
トラウトマン和平交渉にみる日本軍人の「本音」

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「爾後国民政府を対手とせず」声明で和平の窓閉じる

   実際に和平交渉とは別に、日本軍は中国での戦闘行為を続け、12月に入ると蒋介石政府の首都である南京を陥落している。この折に不明朗な史実が起こったことはよく知られている。南京陥落という現実を確認して、日本の軍部は講和の条件を一気に拡大した。新たにいくつかの条件を加えたのである。その中に二つの重要な条件があった。それが「満州国の承認」と「賠償の要求」であった。中国の主権そのものを根本から問う内容だったのである。蒋介石政府はこの条件に返事を返さなかった。

   満州国の承認は中国にとってとうてい受け入れることのできない条件であった。加えて賠償の要求は、中国に対する侮辱に通じていた。蒋介石政府は、 日本が求めた期日までに回答を返さない。日本政府は誠意がないと交渉の打ち切りを宣言した。それが1938(昭和13)年1月16日の近衛首相による「爾後国民政府を対手とせず」という声明であった。日本は自ら和平の窓口を閉じたのである。

   戦後、近衛は「自分の政治的失敗の最大のものは、あの声明であった」と述懐したが、それは当たっていた。和平交渉を進める一方で、戦闘を継続して部分的勝利を得るや、それを元に条件を上積みしていくなら、和平工作は隠れ蓑になってしまうに等しい。ともかく、この和平交渉は歴史の闇の中に消えていったのである。そしてここまでが可視化された史実である。この背景を探ること、つまり不可視の歴史上の動きを分析することが、この連載の主目的である。

   近現代日本の草創期の史実の流れを追いながら、可視と不可視の狭間を追いかけているのだが 、このトラウトマンの和平工作には二つの不可視の史実が隠されている。その視点を改めて整理しておくことにしたい。その二つとは次のような史実である。

1. 日本軍と賠償の関係(戦争とは賠償を取るための行動である)
2. 中国側が描いていたこの時の国際的な闘争

   この二つを分析していくと、私たちは近代日本に何が欠落していたか、それが浮かび上がってくる。そして歴史の本質は意外なほど隠されていることにも気がつくのである。その確認を試みたい。(第34回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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