日中戦争は、日本軍部の傲岸な戦争観が随所に垣間見える戦いであった。中国国民党を取材していて、私は何度もそのような思いを持った。あえて語っておきたいことがあるのだが、1937(昭和12)年11月頃から始まったドイツの中華大使であるオスカー・トラウトマンの仲介の和平交渉にもその例が見える。
この交渉には可視の部分と不可視の部分があり、不可視の部分についてはこれまで充分に検証されてきたとは言えない。あえて今回はこの部分についてふれておくことにしたい。この部分に入り込むと見えてくるのは、日本の軍人たちの本音が どこにあるかがわかってくる。
当初の日本側の案は「微温的」だったが...
トラウトマンの仲介による和平交渉は、日本側が中国側に条件を突きつけるところから始まった。軍事的に日本側が有利なのだから、というのがその理由であった。中国側は日本の侵略を国際連盟に提訴していることもあり、講和には乗り気とは言えないにしても、日本側がどのような条件を求めてくるかについては相応の関心は持っていた。11月段階では日本側が示した案は、華北に非武装地域を作るとか、排日政策の停止、あるいは関税の引き下げなどであった。いわば微温的な内容であった。
むろんこれには理由があった。日中戦争は陸軍の中にも二つの流れがあった。一つは、中国一撃論で中国に一撃を加え、そして日本の制圧下に置こうとする一派であった。参謀本部の作戦部の中堅幕僚を中心に急速に軍内にその影響力を高めた。作戦課長の武藤章などが、この派の代表者であった。これに対して参謀本部の戦争指導班の幕僚は反対でまとまっていたのである。それを代弁していたのは、参謀次長の多田駿である。多田は省部の会議で、対中戦争に深入りすべきではない、日本軍の真の敵はソ連であると熱弁をふるっている。しかし軍内は次第に主戦派が主導権を握ることになった。
トラウトマンは当初、「このような案ならば」と楽観的に考えていた。蒋介石政府は基本的にはどのような案であれ、侵略には対抗するとの方針を固めていたにせよ、日本側がどのように考えているかは知っておく必要があり、トラウトマンの示してくる案にはそれなりの対応をしている。軍事的にこの段階では日本軍との間に開きがあることが明白であり、それ故に政治交渉に関心を示す必要があったともいえた。