地元商店街の人たちの理解が深まった
被災者に提供する食料は、大量に準備しなければならない。モスクに集う人たちだけでは、手が足りなかった。
「私たちだけで、おにぎりを毎日1000個は握れません」(シディキさん)
そこで近所の「サンモール大塚商店街」の各店に応援を頼んだ。すると、快く引き受けてもらえた。実は商店街の人たちも「被災者を助けたい、でもどうすればいいのか...」「余震の中、被災地に行くのは...」と悩んでいたようだ。商店街の女性が大量のおにぎりを用意し、必要な物資とともに車で現地へ運んだ。
シディキさんとクレイシさんは2人ともパキスタン出身。得意料理は何といっても、カレーだ。訪問先では温かい本場の味が喜ばれた。
「でも、毎日となると、ね。『ハンバーグが食べたい』という子どものリクエストにこたえて買って行ったり......。時には牛丼や肉じゃがも提供しました。そのときも、商店街の女性の皆さんが調理してくれました」
この時の相互協力で、ムスリムに対する商店街の人たちの理解が深まったとクレイシさんは感じた。もちろん以前から、マスジド大塚では地元の祭りに参加したりしてお互いに友好的ではあったが、積極的な交流にまではつながっていなかった。あるテレビ番組で、近所の人が「以前は、(モスクの)前を通るのが怖かった」と語っていた。普段接していないだけに、外見やイメージだけで誤解を受けていたのだ。だがこの人は、一緒に震災支援をしたことで接点が生まれ、「同じ人間なんだ」というごく当たり前の、しかし重要な親しみの感情を寄せるようになった。近所同士が以前よりもずっと自然にコミュニケーションを取れる間柄になれたのが、震災支援のひとつの「成果」になった。
東北とは今もつながっている。例えばいわき市で協力してくれた現地の中学校校長は退任後の現在、日本イスラーム文化センターが運営する「インターナショナル・イスラミアスクール大塚」で顧問を務めている。同校は幼稚園と小学校を併設し、イスラム教に基づいた教育を行っており、生徒は小学校の科目や日本語、英語、コーランを学べる。顧問からは、日本語教員の採用や時間割の決め方など、日本の公立校での豊富な経験やノウハウに基づいたアドバイスを得ている。
震災直後、東北の被災地に向かう道路は寸断され、電気をはじめライフラインもストップした。その状況で、危険を顧みず車で現地に向かった理由は「ジハード」だとクレイシさんは強調した。
「ジハードというと『聖戦』をイメージするかもしれません。でも本来、ジハードの意味は戦いというより『努力』です。最大の努力を尽くして、困難な状況を打破する。この思いを強く持ったら、不安な気持ちもなくなりました」
震災発生直後から2011年7月までの4か月間、集中的に炊き出しを続けた。いわき市内の避難所がすべて閉鎖された2011年8月以降も、市内の仮設住宅を訪れたり、埼玉県加須市で避難生活を送っていた福島県双葉町の住民に炊き出しをしたりと、手を差し伸べ続けた。マスジド大塚のウェブサイトに掲載されている「東日本大震災支援報告」は、103回に上る。
「『隣人が空腹でいるのに、腹いっぱい食べるのはイスラムを信仰する者でない』。これが我々の教えです。必要なときがあればいつでも、私たちは支援を惜しみません」
とシディキさん。今もホームレスの人たちの炊き出しを続けるなど、困っている人たちに向き合い続けている。
(J-CASTニュース編集部 荻 仁)