「オリンピックおじさん」死去 日本不参加のモスクワ五輪で訴えた「平和と友好」

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   「オリンピックおじさん」として知られる実業家の山田直稔(やまだ・なおとし)さんが2019年3月9日、心不全のため死去した。山田さんの公式ウェブサイト上で訃報が公表された。92歳だった。山田さんは1964年東京五輪から2016年リオデジャネイロ五輪まで夏季五輪14大会連続で現地に出向いて応援を続けていた。2度目となる地元開催の2020年東京五輪の観戦を楽しみにしていたという。

   山田さんが初めて会場で五輪を観戦したのは、55年前の東京大会だった。当時、山田さんは都内でワイヤーロープ卸売業を営んでおり、仕事の取引先に五輪関係者がいたことがきっかけとなり、試合会場に足を運んだのが最初だという。68年メキシコシティ五輪から本格的に選手を応援するようになり、以後、日本の「応援団長」として日本代表に声援を送り続けてきた。

   筆者が00年シドニー五輪で現地取材をした際、山田さんを取材したことがある。開会式が行われたメインスタジアムで、山田さんはトレードマークだった日の丸をあしらった帽子をかぶり、大きな扇子を手に声を振り絞っていたのが印象的だった。山田さんは現地スタッフや観客に大人気で、山田さんが姿を現すと人だかりができサインをねだるものも。海外においてもその存在感は絶大だった。

  • 山田直稔さんの公式ウェブサイト
    山田直稔さんの公式ウェブサイト
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「オリンピックは世界中の人を幸せにする」

   夏季五輪だけで14大会、長野冬季五輪を含めると、その数は15大会にのぼる。山田さんは、これらすべての大会に自費で観戦してきた。なぜ五輪で選手たちを応援し続けるのか。山田さんに問うと、こう答えた。「オリンピックは世界中の人を幸せにする。だから選手を応援することで自分も幸せになれる」。

   山田さんが観戦してきた15大会で、日本代表選手が出場しなかった大会が1つある。共産圏、社会主義国で初の五輪開催となった1980年モスクワ五輪だ。五輪開催の前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻を巡り、冷戦状態にあった米国がボイコットを主唱。米国の呼びかけに50カ国近くがボイコットを決定し、日本もこれに追随する形で、五輪参加を見送った。

   日本代表のボイコットを巡っては、五輪が政治に利用されたとして当時、社会問題化した。日本代表がひとりもいない五輪。山田さんは単身モスクワに乗り込み、たったひとりの「日本代表」として「平和と友好」を世界に向けて訴えた。日本のボイコットにより、一般人のソ連入国は当時、非常に厳しかったという。山田さんはモスクワ入りするために、何度も駐日ソ連大使館に足を運んで交渉を重ねたという。

20年東京五輪は人生の「集大成」

   国の垣根を越えて世界の「オリンピックおじさん」として親しまれた山田さん。20年東京五輪開幕まで500日に迫った3月12日には、ロイター通信が生前に山田さんに行ったインタビューの模様が動画で公開された。『開幕まで500日、「五輪おじさん」が東京大会への思いを語る』とのタイトルでアップされた動画のインタビューで山田さんは20年東京五輪を自身の「集大成」と語っていた。

   関係者によると、山田さんはここ最近、体調が思わしくなく、2月末に入院していたという。山田さんの公式サイトには「92年の応援人生を終え永眠いたしました。生前はご厚情を賜りありがとうございました」とのお礼が掲載。人生の「集大成」と位置付けた20年東京五輪の「参加」はついにならなかったが、あの帽子姿で扇子を振って応援する山田さんの雄姿は、多くの五輪ファンの胸に刻まれることだろう。

(J-CASTニュース編集部 木村直樹)

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