生涯現役を貫き、2019年2月に90歳で亡くなった俳優佐々木すみ江さんは、「あなたでなければ」と請われると、小さい作品でも低予算でもいとわずに応じた。こだわり続けたのは、生身の人間を演じること。死の1か月前、そのバトンが一人の演劇人に渡された。半世紀の時を超えた奇跡のような出会いだった。
「セールスマンの死」をきっかけに
1月19日、東京・両国のシアターχ(カイ)に佐々木さんの姿があった。最後の仕事となった広島での映画ロケから前日に帰京したばかり。杖がわりのキャリーケースをひいて電車で1時間以上かけてやってきた。
「降りる人――時代」というオリジナルの芝居を上演していたのは、劇団こむし・こむさ。プロの劇団ではない。中心メンバーは60代、都立墨田川高校の元演劇部員が集まってつくった。
楽屋で、代表の野村勇さん(69)が佐々木さんを待っていた。この日が初対面。二人を結び付けたのは、「セールスマンの死」の舞台だった。
佐々木さんは1951年から71年まで劇団民藝に所属し、翻訳劇を中心に多くの舞台に立った。なかでも、故滝沢修さんと共演した「セールスマンの死」はとくに印象に残っていると話していた。アメリカの競争社会の残酷さや親子の断絶を描き出したこの作品で、佐々木さんは主人公であるセールスマンの浮気相手を演じた。
主人公が出張で泊っているホテルでの情事の最中、高校生の息子が訪ねてくる。慌てる父、ショックを受ける息子。対照的に、取り繕おうとはしない女。父と子の断絶が決定的になる場面だ。佐々木さんの役柄は、主人公と同年配で堅気ふうと設定されているが、「いいのよ、しかけたのはあたし」「一緒に楽しくやりましょうよ」というセリフからは潔さや蠱惑(こわく)的な面もうかがえる。
「それなのに、夫(故青木彰・筑波大名誉教授)は、滝沢修にからむ私を『大仏の周りでヒラヒラ飛んでいる小さな蝶々みたいだ』と笑うし、『下手くそだ』とわざわざ手紙を寄越した知人までいた」(生前の佐々木さん)。
しかし、1966年に舞台を観た野村さんは、佐々木さんの演技に確かな「生身の人間」を感じた。当時、16歳。早熟で「なまいきな」演劇少年だった。「多面性を持つ人物像を演じることができる、うまい俳優さんだと思ったのです」。一番後ろの席で観たにもかかわらず、舞台の佐々木さんの姿は、野村少年の目に大きく、くっきりと焼き付いた。その評価は、佐々木さんが映画やテレビに活動の場を移しても、ずっと変わることはなかった。
だが、それを佐々木さんに伝えるすべはなかった。
舞台鑑賞から半世紀経っての出会い
野村さんは高校卒業後、演劇部の仲間と劇団を結成するが、4年で挫折。中学の教師時代は演劇部の顧問としてかかわり続けた。60歳の定年を迎えてから、「また芝居をやりたい」と昔の仲間に呼びかけたのがいまの劇団だ。再び演劇を通じて社会に問題提起するのだと思ったとき、「セールスマンの死」の舞台が蘇ってきた。佐々木さんのことをブログに書いたのは、2015年。舞台を観てから50年近くがたっていた。
「......そういう女性像自体が、強い印象を刻み付けた要因だったのかも知れませんが、その役柄をくっきりと表現した佐々木すみ江の演技が、ほんものだと感じたのです。一人の生々しい女性が、何かを発しながら、そこにリアルに存在しているように感じられたのです」(ブログ「こむし・こむさの日々」より)
一方、90歳になった佐々木さんも、「セールスマンの死」に引き寄せられていた。昨年11月、神奈川芸術劇場で長塚圭史演出、風間杜夫主演で上演された舞台を、佐々木さんは往復4時間近くかけて、プレビューの初日に観に行った。アーサー・ミラーの戯曲が収められた文庫を求めて、自分が言ったセリフも確認した。そんなときに野村さんのブログを知る。
「びっくりしました。そして、うれしかった」。役者人生の最終盤に、花束を贈られたようだった。佐々木さんが「生きているうちに一度お目にかかって、お礼を言いたい」と希望して、1月19日の面会が実現した。上演前の10分間ほどの短い出会い。二人は少し照れながら言葉を交わした。楽屋を辞した佐々木さんは、「何か大きな仕事を終えたような気がする」と話していた。
それから1ケ月後、佐々木さんは亡くなった。「でも、つながっていると思うんです」と野村さんはいう。「佐々木さんの演技には、多くの人に訴えかける広さや深さがあった。だからこそ長い間、多くの作品に出演して評価されたのだと思う。私たちが演劇で目指しているものも同じ。本当の人間を描く作品をつくりたい。『あなたの道を歩き続けなさい』と佐々木さんに勇気づけられた気がしています」。
(ジャーナリスト 室田康子)