保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(32)
国民党が日本軍を「自滅」に導いた方法

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   日中戦争下で共産党はどのような戦略で戦ったのか、そのことを毛沢東の各種の理論を元に考えてきた。毛沢東は孫子の兵法やクラウゼウィッツの戦争論などを参考に、抗日戦のバイブルを作り上げ、そして実践に用いてさらにその理論に磨きをかけた。抗日戦の根幹にあるのは、長期持久戦に持ち込む一方で、勝機があると見たときは日本軍の兵士たちの戦闘意欲をくじくために殲滅戦を行い、戦意を削ぐという道であった。

   毛沢東のこうした戦略は日本軍に徐々に響いてきた。ボディブローを撃たれるように日本軍の将兵を痛めつけることになった。日本には毛沢東の戦略に抗する理論はとうとう作ることはできなかったのである。今回の稿では共産党の側ではなく、国民党の戦略、戦術はどう展開したのか、そのことを改めて考えてみたい。私は日中戦争を調べている折に、日本側だけでなく、中国側の意見も確かめようと思い立ち、1990年代の初めだが、何度か台北に赴き、国民党の指導者や軍人たちに話を聞いていたのである。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
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1990年代に国民党の指導者に取材

   日中戦争は、8年余ほど続いたのだが、国民党の側に言わせると日本軍と中国軍が国家意思を持って戦闘を行なったのは2800回に及んだという。そのうち共産党主導で戦ったのはわずか8回だというのである。それほどの開きがあるにもかかわらず、あたかも共産党が主導的だったというのは誤りだとの抗議の声はしばしば聞かされた。

   私が台北で会った国民党の指導者は1930年代の歴戦の猛者(モサ)たちだったが、1990年代に差し掛かる頃はもう90代を超え、中には100歳に達しようとする者も少なくなった。その中で軍事について、つまり戦略について語ったのはこの頃に三軍大学(陸、海、空)の学長であった蒋緯国である。彼は蒋介石の次男である。青年期からドイツで医学の勉強を続け、その後アメリカで軍事を学んだ。蒋介石から、「今、医学なんぞ学んでいるときか、軍事を学べ」と命じられてアメリカに渡ったというのである。確かに頭脳明晰であった。私は三軍大学の学長室で蒋緯国から、まさに個人教授を受けるような状態で話を聞いた。

侵略軍が崖から落ちるように誘導

   彼は最初に侵略する軍隊の本質についてかなり長く語った。

「アレキサンダーの軍隊だろうが、チンギス・ハンやナポレオンだろうが、侵略する軍隊には必ず共通点があります。どういうことかというと、まず軍事的には直進するという心理です。どこまでもひたすら進んでいくんです。侵略する軍隊は未知の地へ入っていくわけですから、不安との戦いですね。その結果どうなると思いますか。直進していった挙句に崖から落ちるのです。つまり自分で滅びるのです。侵略された方は侵略軍が崖から落ちるように誘導すればいいのです」

と蒋緯国は黒板にその構図を書きながら、説明を続けた。

   日本軍を自滅するように誘導していく。それが戦略であったというのである。具体的にはどういうことか。中国地図を見ればわかるのだが、華北から真下に東に一直線に降りてきて、中国を支配するのは易しいという。しかし、例えば上海まで降りてきて、そこから南に日本軍を引き込み、そして中国内陸部を南にと奥深く引きずり込んでいく。そして四川省から昆明まで日本軍を引き込むというのである。あるところまで来ると、日本軍はまた一直線に進んでいく。崖に落ちるまで猛進していくのだ。日本軍は勝っていると錯覚する。そして奥地に入る。それは滅びの道であった。

   国民党の戦略はとにかく日本軍を南へ、南へと引っ張っていく。それだけでいい。日本軍は勝手に滅びていくというのであった。

   日本軍は近代戦の知識や戦術を持っていなかったと思うと、蒋緯国は言うのであった。むろん中国軍も近代と非近代が混合していた軍事組織であったが、近代化していた部分の中国軍は将校も兵士も徹底的に鍛えられていたという。黄埔軍官学校でのアメリカ仕込みの将校の指揮する軍団は日本軍に大きな打撃を与えたとの例であった。つまり急激に軍事をアメリカの支援を受けて充実していった中国軍は、日本軍に次第に重要な戦闘では打撃を与えるようになったというのである。

   蒋緯国は、1941年12月8日に日本海軍が真珠湾攻撃を加えた日に、山西省である一隊を率いて日本軍と戦っていた。ところが日本軍の将校の作戦はアメリカ仕込みだとわかった。蒋はおどろいた。日本にもそんな将校がいるということは、アメリカ帰りの参謀がいるとわかったというのである。その参謀を調べてくれないかと私は頼まれた。私は日本に戻ると関係者に次々と当たったが、結局は不明であった。しかしそのような将校は結局主流にはなれなかったようで、二度とそういう作戦には出会わなかったというのである。

   国民党は共産党とは異なる形で、やはり手の込んだ長期戦で日本軍の自滅を企図していたのである。(第33回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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