日中戦争下で共産党はどのような戦略で戦ったのか、そのことを毛沢東の各種の理論を元に考えてきた。毛沢東は孫子の兵法やクラウゼウィッツの戦争論などを参考に、抗日戦のバイブルを作り上げ、そして実践に用いてさらにその理論に磨きをかけた。抗日戦の根幹にあるのは、長期持久戦に持ち込む一方で、勝機があると見たときは日本軍の兵士たちの戦闘意欲をくじくために殲滅戦を行い、戦意を削ぐという道であった。
毛沢東のこうした戦略は日本軍に徐々に響いてきた。ボディブローを撃たれるように日本軍の将兵を痛めつけることになった。日本には毛沢東の戦略に抗する理論はとうとう作ることはできなかったのである。今回の稿では共産党の側ではなく、国民党の戦略、戦術はどう展開したのか、そのことを改めて考えてみたい。私は日中戦争を調べている折に、日本側だけでなく、中国側の意見も確かめようと思い立ち、1990年代の初めだが、何度か台北に赴き、国民党の指導者や軍人たちに話を聞いていたのである。
1990年代に国民党の指導者に取材
日中戦争は、8年余ほど続いたのだが、国民党の側に言わせると日本軍と中国軍が国家意思を持って戦闘を行なったのは2800回に及んだという。そのうち共産党主導で戦ったのはわずか8回だというのである。それほどの開きがあるにもかかわらず、あたかも共産党が主導的だったというのは誤りだとの抗議の声はしばしば聞かされた。
私が台北で会った国民党の指導者は1930年代の歴戦の猛者(モサ)たちだったが、1990年代に差し掛かる頃はもう90代を超え、中には100歳に達しようとする者も少なくなった。その中で軍事について、つまり戦略について語ったのはこの頃に三軍大学(陸、海、空)の学長であった蒋緯国である。彼は蒋介石の次男である。青年期からドイツで医学の勉強を続け、その後アメリカで軍事を学んだ。蒋介石から、「今、医学なんぞ学んでいるときか、軍事を学べ」と命じられてアメリカに渡ったというのである。確かに頭脳明晰であった。私は三軍大学の学長室で蒋緯国から、まさに個人教授を受けるような状態で話を聞いた。