保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(31)
毛沢東は「日本の歩む道」予言していた

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   近代日本の軍事的、政治的失敗は、対中政策の誤りにあったと言えるのだが、この誤謬は結局は、軍事観や哲学のありようにあった。東條英機をはじめとする日本の軍事指導者は、軍官僚に過ぎず、当時の国際社会(つまり第二次世界大戦下の歴史的状況)の指導者に比べると、明らかに見劣りがした。それを認めずに近代日本の姿を語ったにしても、さして意味がない。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 毛沢東は「日本の歩む道」を予言していたのか(写真は北京の天安門広場)
    毛沢東は「日本の歩む道」を予言していたのか(写真は北京の天安門広場)
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  • 毛沢東は「日本の歩む道」を予言していたのか(写真は北京の天安門広場)

日中戦争はなぜ泥沼化したのか

   今回から2回ほど、日中戦争はなぜ泥沼化したか、そのことを中国側から見た視点で解いて見たい。対中政策の誤りの根幹を見つめようとの意図を含んでいる。同時に戦略なき日本の軍事観はいかに国民にとって残酷な結果を強いるのか、そのことを確認しておく必要がある。あえて付け加えておくが、戦後になっても、たとえば中国の軍事観や毛沢東の抗日戦の思想を真正面から地に足のついた形で検証した例は少ない。私の知る限り、政治評論家で、池田勇人や大平正芳などの総理大臣の秘書で相談役だった伊藤昌哉(『自民党戦国史』の著者)がもっともわかりやすく解説しているのを知る程度である。

   毛沢東は抗日戦を通じて、実戦の中から学び、学びつつ実践していくとの立場で、戦争哲学を作った。毛沢東は孫子の心酔者であり、その兵法を元に独自の戦争哲学作りを目指している。伊藤は東京帝大を卒業したあと陸軍に徴用され、主計将校になった。敗戦時は中国の長沙の部隊にいたが、対中戦で負けたとの意識はなかったという。しかし日本は現実には、敗戦になっていく。この負けていないのに負けていく心理こそ、人民戦争の骨子だということになるのであろう。

   伊藤は毛沢東の持久戦論やゲリラ戦などは共産主義とは関係なく、孫子、クラウゼビッツを踏まえつつの戦争論だと評価するのである。毛沢東の人民戦争論の骨子は、次のように分析できるというのだ。伊藤の著作(『自民党孫子」)からの引用である。

「兵力の劣勢にある味方は、一時国内に自発的に退却し、敵が味方の勢力圏内での辛労困苦によって、その戦力を著しく衰退させるのを待って一大反攻、決戦に出る。このとき国土の地形を利用し、『人民の協力』という条件を総動員することができる。これが人民戦争の理論である」
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