日本学生野球協会は2019年2月5日、学生野球資格回復の審査委員会を開き、116人の適正認定者を発表した。学生野球の指導者を目指す元プロ野球関係者を対象としたもので、資格を取得したものは、プロ、アマ双方の研修を経たのち、学生野球の指導を行うことが可能となる。この制度が導入されてから6年目となる今年は、元巨人の高田繁氏(73)をはじめ、川相昌弘氏(54)=元巨人=、藪恵壹氏(50)=元阪神=らが適正認定を受けた。
元プロ野球関係者が学生を指導するのになぜ資格が必要なのか。このような疑問を持つ野球ファンの方々も多いのではないだろうか。これはプロ野球とアマチュア野球における長い歴史の中での「確執」によって生じたもので、以前に比べるとこれでもかなり緩和され、プロとアマの壁はかなり低いものになってきた。
一般的にいうプロアマ問題を紐解くと、話は1960年に遡る。当時は、現在のドラフト制度がまだ導入されていなかったため、日本野球機構(NPB)と社会人野球協会(現日本野球連盟)の間で、スカウト活動に関する協定が締結されていた。その内容は、3月1日から10月31日まで、プロの球団による社会人選手のスカウトを禁じるものだった。
無協定状態の中で起こった「柳川事件」
社会人野球協会の要請を受けプロ側は8か月間、スカウト活動を自粛してきたが、1960年に新たに盛り込まれた協定の内容に反発。プロとアマが決裂するという悲劇が起こった。社会人野球協会が新たに要請したものは、プロ野球を退団した選手は、退団した翌年秋の社会人野球日本選手権大会終了後まで選手登録が出来ないというもので、登録可能な人数は1チームにつき3人に限定された。
プロ側は、この協定では退団して職を失う選手は1年間、社会人野球に出場出来ず、退団した選手の生活を保障することが困難になると主張し、内容の変更を訴えたが社会人野球協会はこれを拒否。これによりプロ側が協定を破棄したことで、プロによるスカウト活動の制約が事実上、消滅した形となった。
そんな中、プロとアマの断裂を決定付ける事件が起こる。1961年の「柳川事件」である。1961年4月、中日が日本生命の柳川福三外野手と契約を結び、入団を発表した。以前ならばスカウトが禁じられた期間での出来事に、社会人野球協会はプロとの関係を一切断つことを発表。日本学生野球協会はこれに追随する形で、プロ野球関係者による学生の指導を禁じることを決定した。ここから長きにわたって日本のプロ野球とアマチュア野球の関係断裂が続いた。
プロ野球関係者がアマチュア選手を指導出来ないということは、現役のプロ野球選手や元選手、監督、コーチらは、自身の子供に対しても表立って指導することが出来ないという理不尽さを伴う。学校のOBだからといって選手の指導に当たることも出来ず、野球発展の妨げになるとの意見は後を絶たなかった。この両者の関係に改善の兆しが見え始めたのが、1984年のこと。関係断裂から実に23年を経てようやく歩み寄りが実現した。
野球の国際化による条件緩和も厳しい現実が
ただ、プロ野球関係者が学生を指導する資格は、そう簡単には得られるものではなかった。資格取得の条件は、プロ野球引退後、10年間教諭として教壇に上がることが必須とされ、その上で適性検査を通らなければならなかった。これは教員免許の所持を前提としたもので、免許を持たないものは大学で取得する必要があり、当時は難関とされていた。
1992年バルセロナ五輪で野球が正式種目に採用されるなど野球の国際化が進み、プロ野球関係者による必死の呼びかけもあり、年を重ねるごとにこの条件は緩和されていく。94年には10年間勤務が5年間に、97年には2年間に緩和。2013年にはついにこの条件が撤廃され、現行の制度が導入され、より多くのプロ野球関係者に学生を指導する機会が与えられた。
プロとアマの間で雪解けの様相を呈しているものの、学生野球を取り巻く環境は厳しいと言わざるを得ない。学生を指導する資格は得たプロ野球関係者が必ずしも監督、コーチに就任出来るわけではなく、むしろ指導者の職に就けない者の方が多いのが現状だ。それは受け入れ側の金銭的な問題が要因のひとつでもある。
高校の野球部は、教員が監督、コーチを務めるのが通例で、外部から雇われて専任で指導に当たるケースは少ない。外部の者が指導に当たる場合、そのほとんどが無償でいわばボランティア的なもの。甲子園の常連校で資金に余裕がある私学ならば、専任の監督、コーチを雇うことは可能だが、公立校では現実的ではない。元プロ野球選手とはいえ、学生の指導者として生計を立てるとした場合、かなりの狭き門となる。
今年も100人を超すそうそうたるメンバーが資格認定者に名を連ねた。球界のプロアマ問題はもはや過去のものとなりつつあるが、両者の関係が完全に修復し、正しく機能するまでもう少し時間がかかりそうだ。