近代日本の軍事組織は、結局この国の歴史総体に多くの反省点をもたらしたのだが、その出発点は、大日本帝国憲法発布時の陸相たる大山巌の全軍への訓示に凝縮されていた。
前回触れたように大山は、軍人は天皇への忠誠という点では一般社会とは隔絶しているといい、つまりはこの国の中心軸にならなければいけないとの意気込みを披瀝したのである。憲法発布時には、確かにその意気込みは必要とされたといいうる。
軍事組織は少しずつ手直しされるはずだったが...
しかし議会政治の進展や国民意識の高揚などで、軍事は政治に従属するなどして、少しずつ手直しされながら、近代国家の道筋を歩むのがどの国の歴史を見てもありうべき姿であった。日本はそうはならなかったのである。軍事が「統帥権優位」の立場を主張し、それがこの国の近代国家の常態だとの態度を変えなかった。
その行きつく先が、昭和の「大東亜戦争」の中に凝縮されていた。このことを裏付けるのが、昭和10年代の日本ファシズムの実態である。ここには可視化している部分と不可視の領域がある。まず可視化した部分を確かめてみよう。これにはあえて昭和10年代の3点 の文書や資料を指摘できる。次の3点である。
(1)「國體の本義」(2) 「戦陣訓」 (3) 「皇軍史」
すでに紹介していることだが、(1)や(2)は、いわば攘夷の思想をやや牽強付会に鼓吹している冊子である。ここでは(3)の書の内容について考察してみたい。
「皇軍史」は1943(昭和18)年8月5日に陸軍の教育総監部が刊行した683ページに及ぶ大部の書である。すでに物資が不足している時に、陸軍だからこそこのような書籍を刊行できたと言っていいだろう。もともとこの書は軍内で下級将校の教育本だったのだが、太平洋戦争が苛烈になっていくにつれ、一般にも軍内教育はどのように行われているかを知らせるために刊行されたと言うのである。