梅原猛さん死去 『隠された十字架』など独自の日本学の根っこに「数学好き」

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   『隠された十字架 法隆寺論』『水底の歌 柿本人麿論』などのベストセラーで知られ、文化勲章も受賞した哲学者の梅原猛さんが2019年1月12日、死去した。93歳だった。

   西洋哲学から日本思想、宗教、古代史、文明論まで幅広い分野をカバーし、多数の著作を発表、通説とは異なる独自の解釈で話題を集め、「梅原日本学」と称された。国際日本文化研究センターの設立では政治力を発揮し、学問の異分野交流、国際化にも力を注いだ。「ヤマトタケル」などスーパー歌舞伎の台本も書いており、単なる学者の枠をはるかに超えた多彩な活躍ぶりで際立った。

  • 梅原猛さんの著書『京都 鬼だより』(淡交社)
    梅原猛さんの著書『京都 鬼だより』(淡交社)
  • 梅原猛さんの著書『京都 鬼だより』(淡交社)

「負ける戦争でどうして死なないといけないのか」

   1925年、私生児として仙台市で生まれた。実父の梅原半二は愛知一中、旧制八高校を経て、当時東北大学の学生。実母は下宿屋の娘。生後まもなく、実母が亡くなり、愛知県内の梅原一族の伯父夫婦に引き取られ養子となる。

   実父はのちにトヨタ自動車常務や豊田中央研究所所長などを務め、「トヨタの基礎を作った」と称賛された優秀な技術者だった。

   梅原さんは東海中学から旧制八高へ。勤労奉仕中にB29に襲撃され、防空壕で九死に一生を得た。数学が得意で、同じように論理的思考を旨とする哲学に惹かれ、京大哲学科に進む。「負ける戦争でどうして死なないといけないのか。戦争への懐疑があった」(毎日新聞)とも。徴兵され、内地防衛隊に配属されたが、まもなく終戦を迎える。

   大学では、ハイデッガーなどを研究。立命館大学で教鞭をとるようになる。当時の立命館には、奈良本辰也、林屋辰三郎、白川静、高橋和巳などそうそうたる学者が集まっていた。同時に上山春平の手引きで京大の桑原武夫が主宰する研究会にも参加、周辺には吉川幸次郎、今西錦司、貝塚茂樹、湯川秀樹ら京都学派の重鎮がいて、目をかけられた。

   「専門の異なるこのような学者の励ましを受けて、自分の道を大胆に進むことができた」(日経新聞「私の履歴書」)と回想している。

国際日本文化研究センターの初代所長

   論壇デビューは67年『地獄の思想』。これがベストセラーになり、さらに72年の『隠された十字架 法隆寺論』、73年の『水底の歌 柿本人麿論』で人気を不動にする。『隠された十字架』は法隆寺を聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説で毎日出版文化賞。『水底の歌』も柿本人麻呂についての新説で、第1回大佛次郎賞。両書とも大いに売れ、出版界から引っ張りだこの学者になる。

   80年代の活動で特筆すべきは国際日本文化研究センターの設立。国立の大学共同利用機関として、国際的、総合的な日本文化研究所の創設を中曽根康弘首相に訴え、初代のセンター所長に。

   もう一つはスーパー歌舞伎。『地獄の思想』を読んだ市川猿之助から頼まれ、「ヤマトタケル」を執筆して大当たり。さらに「オグリ」「オオクニヌシ」も書いて、スーパー歌舞伎を一つの演劇ジャンルとして成立させるのに貢献した。

「学会で認められるのはおそらく私が死んでから」

   仮説、新説が多いと言われる「梅原日本学」。根っこには、「数学好き」があるようだ。中学時代、幾何の難問を前にして、ふっと一本の補助線が思い浮かぶ。すると、たやすく解ける。数学の点数は常に98点を下回ることがなかった。

   既存の学説や資料を、新しい視点と直観力で読み直す。専門の学者からは、手厳しい批判を浴びることもあったが、意に介さなかった。

「(自説に)部分的には多少の勇み足があると思うが、全体としてはほぼ間違いないと思われる。保守的な日本の学会のことを考えると、それらが学会で認められるのはおそらく私が死んでからであろう」(「私の履歴書」)

   著書が約100冊、共著が約30冊。公的な肩書も多数あり、晩年まで超多忙。なぜそんなに仕事をするのかと聞かれた梅原さんは、「母の無念さを晴らすため」かもしれないと思い至る。

   妊娠中に結核が悪化、医者から「産んだら間違いなく死ぬ」と言われたが、梅原さんを生んだ。「嬰児の私をおいて、わずか数え歳二十歳でひとり黄泉路に旅立たねばならなかった母の心はどんなに無念であっただろうか」。その思いが終生、梅原さんから離れず、超人的な仕事ぶりへとかきたてた。

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