「学会で認められるのはおそらく私が死んでから」
仮説、新説が多いと言われる「梅原日本学」。根っこには、「数学好き」があるようだ。中学時代、幾何の難問を前にして、ふっと一本の補助線が思い浮かぶ。すると、たやすく解ける。数学の点数は常に98点を下回ることがなかった。
既存の学説や資料を、新しい視点と直観力で読み直す。専門の学者からは、手厳しい批判を浴びることもあったが、意に介さなかった。
「(自説に)部分的には多少の勇み足があると思うが、全体としてはほぼ間違いないと思われる。保守的な日本の学会のことを考えると、それらが学会で認められるのはおそらく私が死んでからであろう」(「私の履歴書」)
著書が約100冊、共著が約30冊。公的な肩書も多数あり、晩年まで超多忙。なぜそんなに仕事をするのかと聞かれた梅原さんは、「母の無念さを晴らすため」かもしれないと思い至る。
妊娠中に結核が悪化、医者から「産んだら間違いなく死ぬ」と言われたが、梅原さんを生んだ。「嬰児の私をおいて、わずか数え歳二十歳でひとり黄泉路に旅立たねばならなかった母の心はどんなに無念であっただろうか」。その思いが終生、梅原さんから離れず、超人的な仕事ぶりへとかきたてた。