ユーチューブが今ほど流行していなかった今から10年ほど前、インターネットの動画文化の中心は「ニコニコ動画」だった。
そのニコニコ動画で「シェイコラ」「コットンの香り」「イルカは捕鯨」などの名言で人気を博した伝説的な「配信者」山下威豆三さんが2018年11月28日にJ-CASTに来社。最前線で活動していた平成19年(2007年)から平成22年(2010年)の動画制作や生配信など現在のユーチューバーの礎とも言える活動の数々を振り返ってもらった。
過去のインターネット上のサービスから動画配信を行ったことで被った迷惑、ユーチューバーに転身して更なる成功を収めたワタナベマホトさんとの動画配信などインターネットを通じた「動画」の存在がより重要になった平成の終わりに振り返っておきたいエピソードを語った。(聞き手・構成:J-CASTニュース編集部 大山雄也)
動画との出会い
――まずは山下さんが動画を始めるきっかけを教えていただけますか?
山下:藤崎瑞希さん(編注:2007年ごろにニコニコ動画に登場。過激な内容の動画で知名度を高めた)をアメーバビジョン(編注:かつてサイバーエージェントが運営していた動画共有サービス。2013年にサービスが終了した)かユーチューブで見たんだよな確か。その動画でニコニコ動画って単語が出てきて会員作ってみたいなって。「顔出してしゃべる」以前に日本語で話してる人がネットにいなかった。キーボードクラッシャー(編注:キーボードを破壊するドイツ人の少年。2006年にユーチューブに動画が投稿され、当時大流行した)がそうだけどあんな感じの洋物しかユーチューブになかった。たまたま藤崎を見つけて、しかも顔出して罵詈雑言をぶった切ってた。ユーチューバーの先駆者みたいだよな。
――藤崎さんに行きつくまでにどんなことがあったのでしょうか?
山下:ホームページビルダーで作るような自分のホームページを持ってたんだよね。その中の掲示板が荒らされて。それで一回ホームページ自体が閉鎖されちゃったんだ。その時たまたま藤崎さんを見つけて自分に送られる悪口を次々とぶった切ってるのがカルチャーショックだった。当時はネットに顔出すことが自殺行為で、しかもそれで罵詈雑言を発していたのは衝撃だった。それだけのことやってて、誰ともつるまないし、今となれば住所も特定されないしすごかったよ。
――「ネットに顔を出すのが自殺行為」とのことですが、(当時の感覚からすると)今のティックトックとか考えられないですよね。
山下:あの時代にそういうのがあると未来人から言われたら自分はすぐ行きたいと思っちゃう。うらやましいよね。声出し、顔出ししてるやつが20歳以上の大人しかいなかった。当時13歳だったからネット上のティーンが集まる場所として驚きを感じる。当時、ティックトックがあったら混ざりたかった。
――藤崎さんをきっかけに自身でも動画を撮り始めたと。
山下:山下威豆三(編注:当時は山下伊豆見)としては2007年の春先から活動を始めて、2006年にブラックシルバーって動画をアメーバビジョンに投稿したのが本当のスタートかな。
――何故、アメーバビジョンだったのでしょうか?
山下:当時のユーチューブは動画をアップロードするページが英語しか対応してなかったし、10分以上の動画が上げられなかった。ブラックシルバーは10分超えてたし。アメーバビジョンは日本語で、しかも10分超えの動画も対応していたんだ。ニコニコはまだβ(ベータ)とか仮とか出たばっかりで全然広まってなかったね。
当時の動画事情
平成19年(2007年)から活動を本格化させ「山下伊豆見」としてニコニコ動画に登場。幼げなルックスと裏腹に突然暴れるなど奇怪な動画で注目を集めはじめた。
――今ですとアイドルさながらにファンがつくこともありますが、当時はいかがでしたか?
山下:動画にコメントがついたり、アップロードに手間がかかるから、ちゃんとアップされると達成感があったというか。もうその時はパソコンの画面に自分が映っているだけで有名人の気分だった。最初に撮ったのは自己紹介だけの15秒くらいの動画。でも、最後に少しだけ顔を出したんだよね。これが山下として初めてのやつ。PSPにつけるカメラをおじいちゃんに買ってもらって撮影し始めたよ。
――その動画の反響はありましたか?
山下:当時13歳だったけどネットに顔出したことは親にこっぴどく怒られたよ。ただ、子どもが顔出す動画って珍しくて、再生数は1万を超えてたし、コメントは5000件もきてた。たった15秒の動画でびっくりだよ。ニコニコ動画(γ)が始まったばかりだったと思うな。
――それだけすぐ反響があるのはインターネット特有ですね。
山下:子どもの顔出しなのと、母数自体も配信者って意味では全然いなかったのもあるのかな。当時は釣り動画が多かったかな。今と違ってフィッシング詐欺的な要素は少なかったよな。単なるいたずらで可愛かった。ブラクラも含めていたずら心。ただスペックが低くて、いたずらでも変な動作されるのはたまったもんじゃなかったけど。
――今でこそユーチューバーは高い知名度を誇っていますが、当時の有名人は誰でしたか?
山下:99年から2ちゃんねるにショートムービーをアップしてたテレホマンの永井先生、ライブドアの「ねとらじ」(編注:2001年に開設されたインターネットラジオの配信サイト。元々は個人が運営しており、04年にライブドアに譲渡。その後創立者に戻り、現在はFC2の手にわたっている)DJから出てきた佐々木さん、ニコ動発では先駆的存在だった藤崎さんが三大配信者って位置づけだったかな。テレビ出演をきっかけにネットに出てきたニート鈴木もインパクトあったね。当時はテレビとネットが連動して、一般人がネットに出るのが珍しかった。
――既に人気を博していた人がいたのですね。山下さんはその流れに乗れましたか?
山下:親に怒られたのもあって一旦顔は引っ込めたんだ。数か月くらいね。でも、その配信は納得したよ。コテハン時代以降は永井先生も顔出してなかったから。
コラボ配信の時代に
ニコニコ動画での存在感が増す一方で、攻撃的な芸風が災いして一度は制作から去った。しかし、これをきっかけに他の配信者とのコラボレーション配信や動画制作を開始。配信者同士の団結で新しい時代が幕を開けた。山下さんもコラボレーションを機に制作する動画の幅を広げ、屋外のロケーションなども積極的に展開した。
――顔出しをしていない間はいかがでしたか?
山下:スカイプの存在が大きかったなあ。当時はスカイプが珍しくて。電話機以外のガジェットで通話するのが斬新だった。しかも電話代はかからない。そこで初めてニコニコの動画にスカイプIDを貼って。パソコンで会話出来たら面白いなって。そのころに「ゆとりポス」が出てきたんだ。そいつが自分にスカイプでからんできて。それでピアキャス(編注:ピアキャスト。ライブストリーミング配信ソフト)やらないのかって誘われて。それで映像付きの生配信のツールを知ったね。当時は気軽にできなかったから技術的なものを教えてもらって。いざ配信したらウイルス感染しちゃってね。それで怒って缶つぶして、マジックナイフでタンスに刺して、カッターナイフを振り回して怒りを表現したんだ。その時に「シェイコラ」って活舌の悪さを茶化したコメントから人気がさらに高まった。
――コメントから人気に火がついたコンテンツもありましたね。
山下:今となっては視聴の邪魔。ただ当時は何の面白みのない動画なのにコメントから人気が出ることもあったよね。俺のシェイコラはその典型かもね。
――本題に戻りますが、このころから山下さんの代名詞とも言える「キレ芸」が始まりました。
山下:さっきの動画がウケちゃって。それが自分のキレ芸の始まり。藤崎さんとかは先にキレ芸やってたけどね。とにかくそこで「キレたらウケる」ってのを覚えちゃった。ニコ動とピアキャスで暴君のようなキャラになっていったな。半年くらいキレ芸を続けて、そのうち顔出しも復帰して、鮫島さんとか危ない系の人と絡みだした。怖いもの知らずでキレで返していって、それがさらに評判を呼んだ。これは10万再生くらいあったな。
――コアな話ですが、鮫島さんとやり合うのは本当に怖いもの知らずですね。
山下:鮫島さんは今考えれば気に入らない配信者をやたら攻撃しまくるデンジャラスな人だよ。通称がネットヤクザだったし。とにかく住所を知られたら最後。救急車とかデリヘルとかいたずらで呼ばれちゃう。そいつといつも喧嘩してたのがウナちゃんマンさんかな。それと今大人気のユーチューバーでシバターさんっているじゃん。あの人もターゲットにされてたよ。
――山下さんは鮫島さんに関わらず被害はありましたか?
山下:鮫島さんにはゲーム機を買えとか脅されたりしたな。キレる動画を続けていたら通ってた学校を特定されて、電話に始まり、学校の周りに俺の顔が印刷されたポスターが張られたり、顔出ししてる動画を校長に送られて呼び出されたり、終いには刃物男が学校の周りをうろついたよ。もうネット禁止令。校長にも怒られたけど、懲りずに続けた。学校のパソコン室に侵入したり、何とかネット環境をそろえて。あと、カフェの無料Wi-Fi使ってPSPでネット閲覧したり。その時にサシマン(編注:現在はワタナベマホトとしてユーチューバーをしている)とかが出てきた。最初のイメージとしては同世代の人間が出てきてうれしかったかな。okailove(オカイラブ)とか、ほかに年上の人たちが山ほど出てきた。日記タグってのが出てきて盛り上がり始めたかな。これが今のユーチューバーの走りだったと思うね。でも、当時は何かあればキレてた。
――動画に出られないときはどうでしたか?
山下:出られなくて歯がゆかった。そんなときにPSP版のスカイプが出て。サシマンもスカイプID出してたからコンタクトとったんだ。これで他人の動画に出ることを覚えた。フィルタリングも出てきたけど、そんなのインストールフォルダ消せば突破できたし。学校と親に見放されて、久しぶりに復帰したんだ。そこからネットで知り合った人と会い始めた。リアルに会うってオフ会も今で言うコラボもなかったし。ほかの配信者とオフラインで同じ場所にいて動画を撮る。これは俺とオカイラブ、サシマンが走りだったと思うな。
配信サイトの違い
山下さんが活動していた平成20年前後はインターネット動画の黎明期。現在は終了してしまったサービスも含め、多くのサイトで山下さんは活動した。中でもニコニコ動画では「キレ芸」や奇想天外な発言、行動を収めた動画やその空耳コメントで寵児となり、人気は右肩上がりだった。
――スティッカム(編注:アメリカのライブ配信サイト)でもやっていましたね。
山下:オンラインでゲスト出演ができる変わったメディアだったね。当時ちらっと聞いて、配信のやり方が簡単だったし、コラボできる窓もあって便利だったし、やりやすくなった。ウェブカメラとマイクだけでやれる便利さがよかった。動画の反響がチャットで流れてきて。サブ画面にほかの人の顔が出てきたりしてね。そこで神聖かまってちゃんの「の子」さん、当時のニコ動の大御所だったコレコレさんが絡んできたね。最初はみんなけんか腰だったけど。俺の芸風からして。
――その当時の活動拠点はどのサイトでしたか?
山下:メインはニコ動とステカム。ニコ動に動画上げて、その反響をステカムで生配信してリスナーに聞いてね。このころようやくユーチューブが日本語化したけどニコニコが盛り上がりすぎちゃってたな。日本ではユーチューブは今よりも下の扱いだったかな。ニコ動がメンテの時に仕方なく見るような。とにかく、その時のサブカルの発信はみんなニコニコ。「ねこ鍋」(編注:土鍋の中で身を丸くして眠る猫を撮影した動画)なんかもそうだったし。ボーカロイドもこの辺で出始めて、いきなり盛り上がった。ちょっと先だけど「けいおん!」もニコ動が火付け役だったと思うよ。YMOのMAD(編注:動画や音声を編集または改変した動画や音声)も少し流行ったよ。チャー研(編注:チャージマン研)もニコニコだったね。いろいろなカルチャーがニコ動に集約してたよ。
――その中でのキレ芸の扱いは。
山下:まだまだアングラだった。
――これも山下さんにとって重要かと思いますが、ニコニコ生放送も始まりますね。
山下:ステカムが全盛期の中でニコ動が生放送を始めるって。09年かな。当時は放送枠が確保できなくて、ダメだったらステカムでやるって感じ。ニコニコ生放送は枠が取りやすくなってからが隆盛だったよ。生放送で枠がとれるようになったけど、そこでセックスピストルズとか音楽と出会って配信から遠ざかったけど、そのあとから配信がどんどんポピュラー化して全盛期がきたよ。当時はユーチューバーとかって言葉がなかった。代わりにニコ生主って言葉が主流。
――やめた後も動画は観ていましたか。
山下:たまにね。ニコ動はサイト事業じゃなくて超会議とか超パーティーに力入れすぎてその色が強すぎちゃって。それが廃れる要因になったのかな。あとはツイキャスの登場でほかの媒体も出てきたし。あと淫夢系(編注:ゲイ向けビデオ「真夏の夜の淫夢」に関連する動画)が流行りすぎたね。内輪ノリが過ぎた。でも、公式系は強かったじゃない。ビジネス面に長けているから公式系が強いし、業界の人に好まれる存在になりそうだね。
これからのネット社会を生きるには
インターネットの動画サイトを通じて絶大な支持を集めた山下さん。その経験を通じて得たことを話してもらった。
――長いことインターネット文化に接していると思いますが、現状のネットに一言いただければ。
山下:ネットだから何でもやればウケるって時代は終わったよ。何か戦略を使わないと生き残れない。変に出てもシャム(syamu_game)さんのようになるだけ。あの人も人気はあるけど扱われ方がね。シャムさんみたいに出たいかといわれても答えはNOだよ。ちゃんとビジネスチックに考えないとネットでもやっていけない。それは良いことでもあり、悪いことでもある。ネット文化がポピュラーになった宿命だから仕方ないね。よりよいネットライフを送って、炎上は...... J-CASTだから良い炎上をしましょうってことで。
――将来なりたい職業の上位にユーチューバーや動画投稿者が入りますが、それを目指す子どもたちに何かあれば。
山下:はっきり言って世の中で一番難しい職業だと思うよ。楽な職では決してない。だってマニュアルがないから。自分で全部考えないといけない。戦略的に考えないとやっていけないよ。良い炎上をさせて、それをいかに持続させるかみたいにね。だから、すごく大変。これからは俺みたいに暴れて人気が出ても絶対に儲からないから。何でもいいからウケれば良いの考えじゃ絶対ダメ。俺はその辺が下手だから今こうなっちゃってるんだけど。
――今、山下さん自身はどういった活動をされていますか?
山下:今はソロでミュージシャンをやっています。自分もビジネスに強いほうではないけど、視聴者側のニーズには答えてるつもり。そんなこともあって、得体のしれない人物のCD買うには勇気がいるから、街中でCD無料配布とかユーチューブに楽曲のフル尺動画を上げたりしてるよ。その代わり興味をもってもらってライブに来てほしい。とはいっても、配信時代のノウハウは活かされてないけどね。何でもウケるって時代の配信だったから。
山下威豆三さん プロフィール
やました・いずみ 1993年東京都豊島区生まれ。2007年から動画制作や配信を始め、10代から活動する配信者の先駆的存在として人気を博した。12年に配信活動から引退。13年からはミュージシャンしての活動を始め、現在は都内を中心にライブ活動を行う。