あのころは、みんなニコニコだった 25歳になった「山下威豆三(伊豆見)」が語る、「配信者」たちの平成ネット動画史

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配信サイトの違い

   山下さんが活動していた平成20年前後はインターネット動画の黎明期。現在は終了してしまったサービスも含め、多くのサイトで山下さんは活動した。中でもニコニコ動画では「キレ芸」や奇想天外な発言、行動を収めた動画やその空耳コメントで寵児となり、人気は右肩上がりだった。

――スティッカム(編注:アメリカのライブ配信サイト)でもやっていましたね。

山下:オンラインでゲスト出演ができる変わったメディアだったね。当時ちらっと聞いて、配信のやり方が簡単だったし、コラボできる窓もあって便利だったし、やりやすくなった。ウェブカメラとマイクだけでやれる便利さがよかった。動画の反響がチャットで流れてきて。サブ画面にほかの人の顔が出てきたりしてね。そこで神聖かまってちゃんの「の子」さん、当時のニコ動の大御所だったコレコレさんが絡んできたね。最初はみんなけんか腰だったけど。俺の芸風からして。

――その当時の活動拠点はどのサイトでしたか?

山下:メインはニコ動とステカム。ニコ動に動画上げて、その反響をステカムで生配信してリスナーに聞いてね。このころようやくユーチューブが日本語化したけどニコニコが盛り上がりすぎちゃってたな。日本ではユーチューブは今よりも下の扱いだったかな。ニコ動がメンテの時に仕方なく見るような。とにかく、その時のサブカルの発信はみんなニコニコ。「ねこ鍋」(編注:土鍋の中で身を丸くして眠る猫を撮影した動画)なんかもそうだったし。ボーカロイドもこの辺で出始めて、いきなり盛り上がった。ちょっと先だけど「けいおん!」もニコ動が火付け役だったと思うよ。YMOのMAD(編注:動画や音声を編集または改変した動画や音声)も少し流行ったよ。チャー研(編注:チャージマン研)もニコニコだったね。いろいろなカルチャーがニコ動に集約してたよ。

――その中でのキレ芸の扱いは。

山下:まだまだアングラだった。

――これも山下さんにとって重要かと思いますが、ニコニコ生放送も始まりますね。

山下:ステカムが全盛期の中でニコ動が生放送を始めるって。09年かな。当時は放送枠が確保できなくて、ダメだったらステカムでやるって感じ。ニコニコ生放送は枠が取りやすくなってからが隆盛だったよ。生放送で枠がとれるようになったけど、そこでセックスピストルズとか音楽と出会って配信から遠ざかったけど、そのあとから配信がどんどんポピュラー化して全盛期がきたよ。当時はユーチューバーとかって言葉がなかった。代わりにニコ生主って言葉が主流。

――やめた後も動画は観ていましたか。

山下:たまにね。ニコ動はサイト事業じゃなくて超会議とか超パーティーに力入れすぎてその色が強すぎちゃって。それが廃れる要因になったのかな。あとはツイキャスの登場でほかの媒体も出てきたし。あと淫夢系(編注:ゲイ向けビデオ「真夏の夜の淫夢」に関連する動画)が流行りすぎたね。内輪ノリが過ぎた。でも、公式系は強かったじゃない。ビジネス面に長けているから公式系が強いし、業界の人に好まれる存在になりそうだね。
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