コラボ配信の時代に
ニコニコ動画での存在感が増す一方で、攻撃的な芸風が災いして一度は制作から去った。しかし、これをきっかけに他の配信者とのコラボレーション配信や動画制作を開始。配信者同士の団結で新しい時代が幕を開けた。山下さんもコラボレーションを機に制作する動画の幅を広げ、屋外のロケーションなども積極的に展開した。
――顔出しをしていない間はいかがでしたか?
山下:スカイプの存在が大きかったなあ。当時はスカイプが珍しくて。電話機以外のガジェットで通話するのが斬新だった。しかも電話代はかからない。そこで初めてニコニコの動画にスカイプIDを貼って。パソコンで会話出来たら面白いなって。そのころに「ゆとりポス」が出てきたんだ。そいつが自分にスカイプでからんできて。それでピアキャス(編注:ピアキャスト。ライブストリーミング配信ソフト)やらないのかって誘われて。それで映像付きの生配信のツールを知ったね。当時は気軽にできなかったから技術的なものを教えてもらって。いざ配信したらウイルス感染しちゃってね。それで怒って缶つぶして、マジックナイフでタンスに刺して、カッターナイフを振り回して怒りを表現したんだ。その時に「シェイコラ」って活舌の悪さを茶化したコメントから人気がさらに高まった。
――コメントから人気に火がついたコンテンツもありましたね。
山下:今となっては視聴の邪魔。ただ当時は何の面白みのない動画なのにコメントから人気が出ることもあったよね。俺のシェイコラはその典型かもね。
――本題に戻りますが、このころから山下さんの代名詞とも言える「キレ芸」が始まりました。
山下:さっきの動画がウケちゃって。それが自分のキレ芸の始まり。藤崎さんとかは先にキレ芸やってたけどね。とにかくそこで「キレたらウケる」ってのを覚えちゃった。ニコ動とピアキャスで暴君のようなキャラになっていったな。半年くらいキレ芸を続けて、そのうち顔出しも復帰して、鮫島さんとか危ない系の人と絡みだした。怖いもの知らずでキレで返していって、それがさらに評判を呼んだ。これは10万再生くらいあったな。
――コアな話ですが、鮫島さんとやり合うのは本当に怖いもの知らずですね。
山下:鮫島さんは今考えれば気に入らない配信者をやたら攻撃しまくるデンジャラスな人だよ。通称がネットヤクザだったし。とにかく住所を知られたら最後。救急車とかデリヘルとかいたずらで呼ばれちゃう。そいつといつも喧嘩してたのがウナちゃんマンさんかな。それと今大人気のユーチューバーでシバターさんっているじゃん。あの人もターゲットにされてたよ。
――山下さんは鮫島さんに関わらず被害はありましたか?
山下:鮫島さんにはゲーム機を買えとか脅されたりしたな。キレる動画を続けていたら通ってた学校を特定されて、電話に始まり、学校の周りに俺の顔が印刷されたポスターが張られたり、顔出ししてる動画を校長に送られて呼び出されたり、終いには刃物男が学校の周りをうろついたよ。もうネット禁止令。校長にも怒られたけど、懲りずに続けた。学校のパソコン室に侵入したり、何とかネット環境をそろえて。あと、カフェの無料Wi-Fi使ってPSPでネット閲覧したり。その時にサシマン(編注:現在はワタナベマホトとしてユーチューバーをしている)とかが出てきた。最初のイメージとしては同世代の人間が出てきてうれしかったかな。okailove(オカイラブ)とか、ほかに年上の人たちが山ほど出てきた。日記タグってのが出てきて盛り上がり始めたかな。これが今のユーチューバーの走りだったと思うね。でも、当時は何かあればキレてた。
――動画に出られないときはどうでしたか?
山下:出られなくて歯がゆかった。そんなときにPSP版のスカイプが出て。サシマンもスカイプID出してたからコンタクトとったんだ。これで他人の動画に出ることを覚えた。フィルタリングも出てきたけど、そんなのインストールフォルダ消せば突破できたし。学校と親に見放されて、久しぶりに復帰したんだ。そこからネットで知り合った人と会い始めた。リアルに会うってオフ会も今で言うコラボもなかったし。ほかの配信者とオフラインで同じ場所にいて動画を撮る。これは俺とオカイラブ、サシマンが走りだったと思うな。