昭和陸海軍の軍事指導部は歴史上、いくつかの過ちを犯している。その最大の誤りは、兵士の命を戦備と考えたことだった。これまでも触れたように特攻作戦や玉砕戦術は、他国には見られない特異な作戦だった。この点について今なおこうした作戦が日本人の美徳であるかのように賞賛する論者がいる。
あの戦争でこうした作戦がとられたことが、日本人の戦争観、あるいは生命観に基づいていたわけではない。むしろ逆である。日本の農村共同体は江戸時代にあって、一人一人の人生は不作、恐慌、天変地異などの影響により、その生き方が変化することもあったが、大体は生から死まで共同体で保障されていた。死生観は戦争による死など全く想定していなかった。いわば死は静かに生の終わる時に訪れるのであり、権力によって強制されるものではなかったのである。
それが昭和の戦争では1941(昭和16)年1月に東條英機陸相によって示達された「戦陣訓」によって、「生きて虜囚の辱めを受けず」というような指揮官に都合の良い軍事観が持ち込まれた。
皇居前で土下座する児童の写真に「玉砕の報に復讐を誓う児童たち」の説明
捕虜になることは家門の恥であり、郷土の不名誉だといって兵士たちにこういうご都合主義の命令が一方的に示達された。これによって不合理な死が戦場では強いられた。私たちがこの結果として、こうした死がどのような意味をもたらされたのか、あるいは単に戦争ではなく、これは文化や伝統と関わるのではないかといった自覚を持つ必要があるだろう。
例えば今、私たちは当時の写真などを見ても愕然とする。1943(昭和18)年にマキン・タラワの玉砕の後、皇居前の広場に並ばされた幾百の、いや幾千の東京の児童が一斉に砂利の上に座り、土下座している。そこにつけられた写真説明が、「玉砕の報に復讐を誓う児童たち」というのであった。あるいは戦後、アメリカ軍が公表した多くの写真を見て、「戦陣訓」がいかに兵士たちの精神を傷つけていたかがわかってくる。
玉砕の地で、自らの銃で自決している日本軍の兵士たちの無数の写真には、「何度も機会がありながら、日本兵の多くは投降して捕虜となるよりも自殺する道を選んだ。この写真はタラワで、アメリカ軍の勧告を無視して自殺した日本兵」といった類の説明がついている。戦後になって、こうした写真を探し歩く日本兵の遺族は、そこに肉親の実在の写真を見てどれほど苦脳したかを、私たちは知る必要がある。
戦略・戦術を検証するための5つのポイント
この稿でもアッツ島の玉砕の折に触れたのだが、大本営、政府は玉砕をこの国の国民の美徳に数え上げた。そうした玉砕には軍事学がなかったことを露呈しているにもかかわらず、そのような反省は一切行わないでひたすら国民や兵士に責任を負わせるような言動に終始した。激戦地で、あるいは玉砕地でたまたまアメリカ軍の捕虜になるのは、人事不省となった兵士が多かったというのは、各種の統計や証言からも明らかだが、それでもなお「死なせてほしい」と要求する日本軍の兵士に、アメリカ軍は説得を試みたのはよく知られた話である。こうした戦略、戦術に、どのような総括をすべきであろうか。さしあたり次のような見方を問題点として指摘しておくべきであろう。箇条書きにしておきたい。
(1)次代を担う青年層に一方的な死を強要した指導者の知的退廃
(2)軍事の暴走を勇気を持って止める指導者不在の国内政治
(3)国民の間にあった権力追随の体質の横行と黙認
(4)神国日本の神兵といった教育の泥縄式による国家の方針
(5)軍事はそれぞれの国の伝統や文化、思想の集大成という意識の欠如
こうした事実を指摘していくと、私たちの国は歴史的に時に全くの変調をきたしてしまったことを自覚しなければならない。
この5項そのものがいずれも重要なのだが、特に重要なのは、第5項である。これがつまるところ日本に軍事学がないという証になるのだが、こうした軍事学は不可視の領域になる。いわば武士道などの教えがどのように軍隊に入り込んでいたのかを見ておくべきであった。一般的にいうなら、軍事学は基本になる徳目がある。この徳目のうえに軍事理論は構築されるべきである。日本ではそれがどのように行われていたのか、がまず問われるべきであった。そこでその徳目を詳細に見ていくことにしたい。一般的にいうならば、その徳目は仁とか徳、あるいは智といったような語であらわされる。それらの徳目に基づいて作り上げられる軍事学を改めて考え直したい。(第27回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。