保阪正康の「不可視の視点」 明治維新150年でふり返る近代日本(26)
「徳目」欠いた日本の軍事学

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   昭和陸海軍の軍事指導部は歴史上、いくつかの過ちを犯している。その最大の誤りは、兵士の命を戦備と考えたことだった。これまでも触れたように特攻作戦や玉砕戦術は、他国には見られない特異な作戦だった。この点について今なおこうした作戦が日本人の美徳であるかのように賞賛する論者がいる。

   あの戦争でこうした作戦がとられたことが、日本人の戦争観、あるいは生命観に基づいていたわけではない。むしろ逆である。日本の農村共同体は江戸時代にあって、一人一人の人生は不作、恐慌、天変地異などの影響により、その生き方が変化することもあったが、大体は生から死まで共同体で保障されていた。死生観は戦争による死など全く想定していなかった。いわば死は静かに生の終わる時に訪れるのであり、権力によって強制されるものではなかったのである。

   それが昭和の戦争では1941(昭和16)年1月に東條英機陸相によって示達された「戦陣訓」によって、「生きて虜囚の辱めを受けず」というような指揮官に都合の良い軍事観が持ち込まれた。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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  • タラワの戦いでは日本軍は玉砕した
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皇居前で土下座する児童の写真に「玉砕の報に復讐を誓う児童たち」の説明

   捕虜になることは家門の恥であり、郷土の不名誉だといって兵士たちにこういうご都合主義の命令が一方的に示達された。これによって不合理な死が戦場では強いられた。私たちがこの結果として、こうした死がどのような意味をもたらされたのか、あるいは単に戦争ではなく、これは文化や伝統と関わるのではないかといった自覚を持つ必要があるだろう。

   例えば今、私たちは当時の写真などを見ても愕然とする。1943(昭和18)年にマキン・タラワの玉砕の後、皇居前の広場に並ばされた幾百の、いや幾千の東京の児童が一斉に砂利の上に座り、土下座している。そこにつけられた写真説明が、「玉砕の報に復讐を誓う児童たち」というのであった。あるいは戦後、アメリカ軍が公表した多くの写真を見て、「戦陣訓」がいかに兵士たちの精神を傷つけていたかがわかってくる。

   玉砕の地で、自らの銃で自決している日本軍の兵士たちの無数の写真には、「何度も機会がありながら、日本兵の多くは投降して捕虜となるよりも自殺する道を選んだ。この写真はタラワで、アメリカ軍の勧告を無視して自殺した日本兵」といった類の説明がついている。戦後になって、こうした写真を探し歩く日本兵の遺族は、そこに肉親の実在の写真を見てどれほど苦脳したかを、私たちは知る必要がある。

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