史実を無視してドイツの軍事学を取り入れる
もともとそれぞれの国の軍事学は、その国の歴史、国民性、隣国との関係、財政、戦争体験、政治など国家の多面的な要因が絡み合って成り立っている。定まった理論があってというわけではない。たとえばアメリカは自国の領土にいかなる形でも、他国から指一本ふれさせまいとする。自国を決して戦場とせず、アメリカンデモクラシーを守るためには、どこの地までも兵を送る、と言ったところが読み取れる。それが軍事学の要諦を成している。
ではプロイセン(ドイツ)の軍事学はどうだったのか。この軍事学の中軸は皇帝のために命を捧げるという点にあった。誰がその最初の役を果たすのかが注視されていた。この事実は軍事が皇帝のための忠誠の証として機能していることでもあった。近代日本の軍事にこの事実は重みを持った。天皇のために命を捧げるというのはすでに、軍人勅諭で示されていたからである。日本の軍事学もまさにこの点が軸になった。
日本の軍事学は本来なら江戸時代のただの一回も対外戦争を体験していないことが、軸の中心になってしかるべきであった。しかし、そういう貴重な史実は無視されたのだ。さらに日本社会の共同体に流れている生命への尊びを軍事に取り込むべきなのに、そういう理念も無視された。あまつさえドイツの軍事学も時代とともに変遷し、1918年に帝制が崩れたあとは、国民軍にと変容しているにもかかわらずそういう変化に日本の軍事論は全く対応していなかった。
そして何より、天皇に命を捧げるとの忠誠の証を兵士たちには求めるものの上級将校は、それを無視する形になったことであった。しかも、武士道という日本の伝統を利用して、 兵士に一方的に「死」を強要したのである。武士道には多様な考えがあるのを無視して、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」で知られる佐賀鍋島藩の「葉隠」の教えだけに絞っていった。次回はこの点をさらに検証していきたい。(第26回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。