「好々爺」という言葉がぴったりの柔和な表情と、思ったことをズバッと口にする飾らなさ――2018年11月16日死去した、経団連第12代会長の米倉弘昌(よねくら・ひろまさ)氏が周囲に親しまれたのは、そんな人柄ゆえだったという。
その米倉氏が財界のリーダーとして立ったのは、政権交代、東日本大震災といった激動の時代だった。その事績を振り返る。
「本命」ではなかった会長選出
神戸市出身。1960年東大法学部を卒業後、住友化学工業(現住友化学)に入社。順調に出世の階段を上り、2000年に社長に就任した。化学業界きっての国際派として鳴らし、サウジアラビアで大規模な石油化学コンビナートを建設するなどグローバル展開を加速。アフリカではマラリア感染を予防する蚊帳を売り込み、ビジネスと援助とを両立させた。
財界活動の源流は、1970年代にさかのぼる。第4代の土光敏夫会長時代に副会長を務めた長谷川周重元社長の秘書として経団連活動に携わった。以来、経団連事務局とも太いパイプができ、2004年に経団連副会長に就任。2期4年間務めた後、2008年からは御手洗冨士夫会長の下、実質的なナンバー2である評議員会(現審議員会)の議長を務めた。
とはいえ、ポスト御手洗の本命だったわけではない。そもそも、評議員会議長を務めたあとに会長に就任したのは、1950年代に東京芝浦電気(現東芝)社長を務めた石坂泰三氏だけだ。三菱、三井、住友という旧財閥系企業から会長を選出しないとの不文律もあったため、会長選出は難しいと思われていた。しかし、他の候補者が尻込みするなどして調整が難航し、御手洗氏が最終的に指名したのが米倉氏だった。