「群馬県知事」は、亡き父の悲願だった
知事選出馬へ具体的に傾いたのは、18年10月から11月にかけて。「自民党群馬県連会長として(群馬選出の自民党議員として)『次の知事選び』をどう考えているのか?!」のタイトルで、ふたたびブログ連載をスタート(全28回)したのだが、その間のイベントで参院選と知事選への出馬を「五分五分です」と発言。それからは、独自に行った電話調査の結果などを交えつつ、
「来夏の群馬県知事選に関する山本一太の独自かつ信頼性の高い世論調査の結果を公表する!」(11月23~24日、全5回)
「山本一太が考える『次の群馬県知事』に求められる能力&資質とは?」(11月30日、全2回)
「全県を網羅する山本一太後援会~後援会長9割が『知事選への出馬』を望んでいることが判明!」(12月3日、全2回)
などとトーンを上げてきた。そして今回の出馬表明である。
ブログを読み込むと、「群馬県知事」が山本氏にとって、思い入れのあるポストだとわかる。15年3月に投稿された回顧録「亡父山本富雄の悲願だった群馬県知事」(全5回)によると、草津町議から県議となった富雄氏は、知事選出馬にも意欲を見せたそうだ。
しかし当時の群馬県は、福田赳夫元首相と、中曽根康弘元首相による「上州戦争」の真っ只中だった。両氏の「福中裁定」により富雄氏は出馬を断念。国政へ転身し、農水大臣などを歴任しつつ、ふたたび知事選出馬をもくろむが、「ここには書けない『ある事情』」によってあきらめざるを得なかったという。
「今、政治家としてあの場面を振り返ると、こう思わずにはいられない。『どんな事情があろうと、結果がどうなろうと、オヤジは選挙に出るべきだった!』と」(15年3月24日のブログより)