保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(22)
ポツダム宣言受諾で目指した 「近代日本が選択した道」清算

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終戦時には崩壊していた昭和の政治体制

   軍事ファシズムとか超国家主義と評される昭和の政治体制は、軍事の横暴によってすでに崩壊していたのである。戦争に負けたから崩壊したのではなく、崩壊していたから戦争があれほど悲惨な状態にまで続いたのであった。

   東條内閣崩壊に至るプロセスから窺えるのは、軍事が一切の制限や枠組みを無視して国家を動かした時に、そこには「軍事イコール暴力」といった図式が鮮明に浮かび上がってくるのである。それを阻むために昭和天皇と政治の側がどれほどのエネルギーをつぎ込んだかは、日本の終戦時の構図を見るとよく理解できる。東條内閣の後は小磯國昭内閣が、そして終戦の役割を担った鈴木貫太郎内閣と続いていくのだが、特に鈴木と天皇はまさに決死の覚悟で戦争終結にもっていった。その間に沖縄の玉砕戦、広島、長崎への原爆と続いたのである。

   近代日本の選択した道がその終焉を迎えるにあたり、いかに苦悶したかをまずは私たちは知っておくことが必要になるだろう。そのことは1945(昭和20)年7月26日に米英中国の三カ国によって出されたポツダム宣言の受諾をめぐる闘いの中に見事なまでに凝縮されている。いわばこの闘いは「天皇と鈴木貫太郎の政治の側と陸海軍の本土決戦派の軍の側との対立」であると同時に、近代日本が選択した道の清算だったのである。この視点は、さらに分析するならば日本が、20世紀の常識である「文民支配」獲得の闘いでもあったのだ。

   この間に特筆すべきことは、2回の御前会議とそれに伴う陸軍の強硬な態度の硬直性である。天皇の意志は宣言受諾に傾いていて、政治の側の意見もそれに従っているというのに、あれこれ注文をつけて軍事の継続を主張する。この背景を見ると、陸軍大臣の阿南惟幾に対して徹底抗戦を主張する中堅幕僚たちが突き付ける論理はすでにこの国の将来を考えているとは言い難く、破滅にまで突き進もうとの異様さも感じられる。その心理にはどのような考えが内在しているのか、歴史的には説明がつかない。

   中堅幕僚たちは、現実には権力から身を引いている東條の復権を考えているのである。東條自身、昭和20年8月12日から13日ごろまでの間、微妙な表現の一文を残していたりするのである。そのような内容をつぶさに検証することで、明治草創期の国造りがいかなる形で反映しているかもわかってくるように思う。(第23回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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