保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(22)
ポツダム宣言受諾で目指した 「近代日本が選択した道」清算

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   東條英機内閣退任のプロセスを追うと、近代日本の矛盾が顕になってくる。たとえば昭和10年代の内閣更迭は、大体が陸軍が次期大臣を推挙しないことで自在に内閣の生殺与奪の権利を手にしていた。それは陸海軍大臣現役武官制を錦の御旗としての暴挙ともいえた。ところが東條内閣の倒閣では、天皇の命により内閣に重臣級の大物を入閣させることになったが、その大物たちが一様に辞退し、東條にそっぽを向いた。一方で、そのような大物を入閣させるために、東條首相は大臣を辞めさせなければならなかった。つまりポストを開ける必要があった。その対象になったのは岸信介商工大臣である。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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  • 大日本帝国憲法は軍事に関してはわずか二つの条文しかなかった
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憲法の規定を逆手に取って居座った岸信介

   東條たち軍事指導者は岸に辞任を迫り、そこに大物閣僚を据えようと図った。それで天皇の信頼が得られると考えたのである。ところが岸は辞表を出さない。大日本帝国憲法のもとでは、閣僚と言えども天皇に責任を負っているのであり、首相の命令で辞めさせるわけにはいかない。岸はそれを逆手にとって居座りを図ったのである。東條の命を受けた政治将校は岸に脅しをかけている。岸が辞めないのは内大臣の木戸幸一が後ろから操っているとの説も流された。長州閥が怒りを込めていやがらせをしているとの見方もされた。結局東條内閣は倒れるわけだが、このプロセスからわかるのは、かつて陸軍が用いて内閣を倒した手法が、今や巧妙に使われて東條内閣は倒れたということだ。

   近代日本が選択した帝国主義国家は軍事主導体制を維持するために、法体系が軍事の側によって都合よく解釈されてきたのだが、戦争末期に近づくにつれ、それがほころびを見せていった。ありていに言えば、軍が内規、あるいは既得権益として用いた手法は大日本帝国憲法の精神とは明らかに反していた。

   この憲法は軍事に関してはわずか二つの条文しかない。11条と12条である。天皇が統帥することを謳った11条、軍の編制などの権限は天皇にあることを明確にした12条、それが柱になっているだけで、細部にわたっては軍事の側に裁量が委ねられていたのである。

   それをいいことに勝手放題、というのが昭和の軍事指導者の手法でもあった。陸海軍大臣の現役武官制は慣例として認められても、内閣を自在に操るのは11条違反ということもできた。あるいはこの手法は憲法を死滅させた状態に追い込んだという言い方もできた。

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