保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(21)
昭和天皇が東條内閣をつぶさなかった理由

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東條辞任直後にクーデター計画浮上

   あえていうと、天皇は当初、東條を更迭するような動きを取らなかった理由に「田中(義一)内閣の苦い経験」があったからとも話している。田中に強い表現で、信用していないと言ったために、田中は恐懼して退任した。その後に急死している。

   戦況が悪化していくときの天皇と政治、軍事指導者たちの関係は、歴史的に多くの不可視の部分がある。それを資料によって可視化していくのは、次代の者の務めとも言えるわけだが、そうすることで歴史の裏側の史実が見えてくる。その中に「事実」を超えた「真実」を見出すことができる。

   東條内閣が倒れたのは、戦況悪化の責任を取ったことになるのだが、むろん天皇の目で見るのと、東條の側から見るのとは全く異なっている。天皇は、東條が多くの重要な役職を兼ねていることに不安があり、加えて国民の信を失っていることもあり、政府の中に重要人物を入れるべきだと考えていた。統帥部にも重みのある人物を想定していた。

   しかし東條はそのことを充分に理解していなかった。天皇も、前述の『昭和天皇独白録』でそのことを認めていた。戦争指導が東條だけで行われるのは不安という気持ちを東條は分かっていなかったのである。

   逆に東條は、天皇が自分にいくつかの条件を出したのは、重臣たちの陰謀だと考えた。自分をやめさせるために姑息な手段を用いていると受け止めた。その分だけ、東條や軍事指導者たちは重臣を中心とした反東條の動きに怒った。東條が辞任した時に、軍事指導部にいる幕僚たちの中には、クーデターを勧める者もいた。これは戦後になっての東條側近からの直話になるのだが、「戦争の激しくなる時に後ろから足を引っ張るような重臣たちの行動に激怒し、彼らを逮捕して天皇の元から引き離し、戦争遂行に全力を投入すべきだと私たちは考えました」というのだが、こうした東條更迭の動きに天皇の意志があると考えずに重臣たちの妄言に騙されていると見ていたからだ。

   結局、東條はこうしたクーデター計画に頷かなかった。東條は、自分は天皇から信を失ったとを感じていたからである。太平洋戦争下でのこうした機微は数多くある。その図は近代日本が帝国主義的国家を選んだ結果とも言えるが、その半面で帝国主義的道義国家や自由民権国家や連邦制国家につながる地下水脈の動きとも関連があることを、私たちは理解すべきでもある。(第22回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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