保阪正康の「不可視の視点」明治維新150年でふり返る近代日本(20)
東條が天皇の「信」失った理由

全国の工務店を掲載し、最も多くの地域密着型工務店を紹介しています

   昭和天皇は戦争が始まっても、講和を常に模索していた。本稿でも何度か繰り返しているが、どの天皇も在位する理由がいくつかあるにしてもその最大の理由は、「皇統を守る 」をおいてほかにない。戦争のあいだ、天皇は戦争に勝つというのが「皇統を守る」ことと考えていたにせよ、それが現実のものとなるのか、次第に不安になったというべきであった。その不安を解消するのは終戦に向かう以外にない。昭和20(1945)年に入ると、それが側近たちには容易に分かるようになった。

   戦争はひとたび始めると止めるのは難しいと言われるのは、軍事が政治をコントロールしている国の特徴である。つまりシビリアン・コントロールが20世紀の戦争では当たり前になっている理由は、科学技術の進歩で軍事の非人間性に歯止めをかけるための知恵でもあった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 東条英機は軍政と軍令を兼ねる「独裁者」ともいえる立場に立った
    東条英機は軍政と軍令を兼ねる「独裁者」ともいえる立場に立った
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 東条英機は軍政と軍令を兼ねる「独裁者」ともいえる立場に立った

終戦の方向性を「可視化」する必要性

   それまでの戦争を見てわかる通り、戦闘と政治(外交)が切り離されている時代ではなくなった。軍人はどの国でも、戦争を始めるや勝つまで続ける性格を持っている。しかも軍事指導者は、自らは決して死なないし、兵士がどれほど亡くなろうと勝てばいいと考えがちなのである。ところが日本は軍人が政治の上位に立ち、統帥権の独立と称して勝つまで戦争を継続しようとしていたのである。

   その戦争継続の意志は、天皇の本来の気持ちなどを全く考えることなしに一方的に肥大していった。政治がコントロールするとの意味は、天皇がこの国の主権者という立場から、大元帥といった立場の上位に立ち、終戦を受け入れることでもあった。天皇はこの国の「政治的主権者」といった存在であることを実証することが必要とされた。つまり終戦という方向は誰の目にもわかるように可視化する必要があったのだ。国民にはこの時にはわからなくても、歴史の中にその心情や動きが刻まれているはずであった。

   実は昭和天皇は、侍従武官には昭和19(1944)年3月に戦争を止める方向を明かしている。政治関係では対米協調派の外相、東郷茂徳に開戦まもなくからその方向を漏らしているかに見えるのだが、大元帥という立場でも意外に早くに戦争の終結を伝えていた。高橋紘の『人間 昭和天皇』に引用されているのだが、このころに侍従武官を勤めていた坪島文雄の記録(『草水 坪島文雄の生涯』坪島茂彦)によると、天皇は次のように言っているというのだ。

「次長(参謀本部次長・後宮淳)の話を聞くと世界全般の情勢漸次悪化し來る所『我国としてはしっかり頑張らねばならぬ、頑張り通せば何とかなる』と言うが如く聞ゆる。勿論頑張ることに不同意は無いが、国を最後の土壇場迄追込むことは戦後の国が回復を困難にすべし。戦争の終末を如何にするかに就ては十分考え居るか」

軍政と軍令を兼ねる「独裁者」

   トラック島が陥落し、日本が敗戦の道を鮮明に歩き始めた時である。天皇は大元帥としての発言をしていたのである。坪島はこうした発言に「畏き極みなり」と日記に書いたという。本来なら天皇のこうした発言をより軍事指導者は考えなければならない。しかし東条英機を始めとする指導者は考えていない。今、改めてこの発言を歴史の年譜に当てはめてみると意外な事実にも気づかされる。

   東條首相、陸相と海相の嶋田繁太郎は、昭和19(1944)年2月に軍政と軍令を兼ねた、いわば独裁者というべき立場に座っていた。東條が先導する形で軍令(陸軍なら参謀総長)の責任者になっていたのである。これは前代未聞であった。議会政治が動き始めたころに、軍政と軍令を兼ねた例はあったが、しかしその二分化が常態になっているのに、戦時下の重要な時期にこんな愚策が公然と行われたのであった。東條は軍令が国内事情も知らずに暴走しているとして、国政全般に責任を持つ自分が戦争指導を行うべきであると主張し、参謀総長の杉山元を引きずり下ろし、そして自らその地位についたのである。

   天皇の弟宮である秩父宮は、結核のために御殿場での別荘で療養中であったが、この挙に怒り、厳しい筆調での質問状を提出している。東條は何も知らずに口を挟むなと言わんばかりの答弁書を提出している。独裁者丸出しであった。

   こうした事情を理解した上で、先の坪島への天皇の言葉を理解すると次のように解釈できるのではないか。

   《戦争終結の方向は政治が担うのだから、東條が軍令を兼ねることにより首相という立場で終戦の構想を進めるはずである。東條が軍政と軍令を兼ねるのはそのためと理解しているであろう。私が裁可したのはそのためと理解しているのであろう。》

   東條はそのような理解を全く持っていなかった。むしろひたすら戦争継続の道を直進するだけだったのだ。半年後に東條が天皇の信を失い、辞任に追い込まれるのはまさにそれが理由だったのである。(第21回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

姉妹サイト