保阪正康の「不可視の視点」明治維新150年でふり返る近代日本(20)
東條が天皇の「信」失った理由

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軍政と軍令を兼ねる「独裁者」

   トラック島が陥落し、日本が敗戦の道を鮮明に歩き始めた時である。天皇は大元帥としての発言をしていたのである。坪島はこうした発言に「畏き極みなり」と日記に書いたという。本来なら天皇のこうした発言をより軍事指導者は考えなければならない。しかし東条英機を始めとする指導者は考えていない。今、改めてこの発言を歴史の年譜に当てはめてみると意外な事実にも気づかされる。

   東條首相、陸相と海相の嶋田繁太郎は、昭和19(1944)年2月に軍政と軍令を兼ねた、いわば独裁者というべき立場に座っていた。東條が先導する形で軍令(陸軍なら参謀総長)の責任者になっていたのである。これは前代未聞であった。議会政治が動き始めたころに、軍政と軍令を兼ねた例はあったが、しかしその二分化が常態になっているのに、戦時下の重要な時期にこんな愚策が公然と行われたのであった。東條は軍令が国内事情も知らずに暴走しているとして、国政全般に責任を持つ自分が戦争指導を行うべきであると主張し、参謀総長の杉山元を引きずり下ろし、そして自らその地位についたのである。

   天皇の弟宮である秩父宮は、結核のために御殿場での別荘で療養中であったが、この挙に怒り、厳しい筆調での質問状を提出している。東條は何も知らずに口を挟むなと言わんばかりの答弁書を提出している。独裁者丸出しであった。

   こうした事情を理解した上で、先の坪島への天皇の言葉を理解すると次のように解釈できるのではないか。

   《戦争終結の方向は政治が担うのだから、東條が軍令を兼ねることにより首相という立場で終戦の構想を進めるはずである。東條が軍政と軍令を兼ねるのはそのためと理解しているであろう。私が裁可したのはそのためと理解しているのであろう。》

   東條はそのような理解を全く持っていなかった。むしろひたすら戦争継続の道を直進するだけだったのだ。半年後に東條が天皇の信を失い、辞任に追い込まれるのはまさにそれが理由だったのである。(第21回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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