ボクシングのWBC世界スーパーバンタム級暫定王座決定戦が2018年11月12日、東京・後楽園ホールで行われ、同級2位・亀田和毅(協栄)が、同級1位アビゲイル・メディナ(スペイン)を3-0の判定で破り世界2階級制覇を達成した。3兄弟そろっての世界2階級制覇は史上初の快挙となった。
亀田家の3男・和毅が本格的にボクシングキャリアをスタートさせたのが、メキシコだった。中学卒業を機に単身、ボクシングの本場に渡り、アマチュアのリングに上がった。今から12年前、和毅が15歳の時だった。
当時、スポーツ紙でボクシングを担当していた記者は、メキシコに出向いて和毅のアマチュアデビュー戦を取材した。日本から駆け付けたメディアは記者ただ一人だった。
劣悪な環境にあったメキシコ修業時代
記者がメキシコシティに到着した時、出迎えてくれた現地の日本人が最初に言った言葉を今でもよく覚えている。
「街中で警察官に会ったら目を合わせてはいけない」
この言葉の意味はすぐに理解出来なかったが、それを悟った彼はこう続けた。
「このあたりの悪い警官は、相手が日本人だと分かるとすぐに寄ってきて身体検査をするんですよ。ポケットを探る時に麻薬などを入れて『これはお前のか。捕まりたくなかったら金をよこせ』となるわけです。私も何度もやられましたよ」
和毅が修行の地に選んだ場所は、このような行為が頻発するメキシコでも最も危険な地域だった。
当時和毅が宿舎にしていたのは、バックパッカーが使用する1泊1000円程度の安宿だった。目の前の公園は麻薬の取引場として有名な場所で、夜中に銃声が響くようなところだった。
練習するジムも環境は劣悪だった。和毅が通っていたジムは、リングとサンドバッグがあるだけの殺風景なジムだった。日本のジムには壁に選手が使用するグローブやヘッドギアなどが掛けてあるのが通常だが、そのジムは選手が用具を置いて帰ると次の日にはなくなってしまうとのことで、選手はみな、道具を持ち帰っていた。パンチングボールでさえ、みなが自前のものを使用し、練習後は自分で取り外して持ち帰っていた。
心の支えはスーパースター、シュガー・レイ・レナードだった
宿舎にはテレビも携帯電話もなく、あるのは一台のパソコンだけだった。初めて父と兄妹と離れて暮らす15歳は、YouTubeでひたすらボクシングの動画を見続けた。画面の中のボクサーはいつも決まっていた。和毅が憧れていた世界5階級制覇のシュガー・レイ・レナード(米国)だった。
和毅のメキシコでの日課は、一日10個のスペイン語を覚えることだった。夜になると、ベッドの上でその日覚えたスペイン語をB5ノートに書きこんだ。理解出来ない単語は辞書を引きながら覚えた。毎日、少しずつボクシングの基礎練習を反復するようにスペイン語を習得していった。
メキシコでのアマチュアデビュー戦は、完全にアウェーだった。日本ではその名が知られていた和毅だったが、メキシコでは無名のアマチュアボクサー。試合当日、試合会場では選手の名前入り対戦プログラムが配布されたが、そこに和毅の名前はなかった。
スタッフの中にスペイン語を話せる者がなく、その日、本当に和毅の試合が行われるかさえ分からない状況だった。控室は選手以外の立ち入りが禁止されており、言葉が分からない和毅はひとり、自分の出番を信じて待つしかなかった。
後の夫人が支えた現地生活
そのデビュー戦を観戦していたのが、後の和毅の夫人となるシルセさんだった。ボクシングファンで自身もボクシングをやっていたシルセさんと和毅はすぐに打ち解け、家族ぐるみの付き合いが始まった。
以降、シルセさんがメキシコでの生活を全面的にサポートし、和毅のスペイン語も日々上達し、今ではネイティブ並みに話せるようになった。和毅がメキシコでプロデビューを飾った際にメディアから付けられたニックネームは、メキシコの少年を意味する「エルメヒカニート」だった。
12年前、アマチュアのデビュー戦となる当日のこと。会場に向けて出発する間際、和毅は「もう一度だけ」といって宿舎に戻った。和毅が食い入るようにして見るパソコンの画面に映っていたのは、やはりレナードだった。
(J-CASTニュ-ス編集部 木村直樹)