太平洋戦争に入ってからの昭和陸軍は、極めて偏狭ともいうべき道を歩み始めた。客観的にいうならば歴史性も社会性も失い、全ての事象について自らに都合の良い論理に身を委ねた。
その都合の良い論理とはどのようなものだったかは知っておく必要がある。その都合の良い論理の一例をあげよう。
『皇軍史』で陸軍が主張したこと
太平洋戦争下の昭和18(1943)年8月に陸軍の教育総監部が、『皇軍史』という書を刊行した。683ページに及ぶ大部の書であったが、この書は「二千六百年の皇軍発展の跡を明らかにすることによって、皇軍の本質を明確に把握し、皇軍の使命と皇国軍人の本分とを確認し、以て八紘一宇の大理想の顕現を翼賛し奉るべき皇軍の規範を求めうるのである」と、その目的を明かしている。言わんとする意味は、戦争を戦っている現在、私たちは日本軍のよって来たる理由を明らかにして今の戦いを継続するのだとの意味である。
その上で展開する論はあまりにも突飛である。まず本来、日本の軍隊は神軍であると規定する。神武天皇以来の神話に基づく期間を神代とした上で、その空間には「天祖御親ら武装し、陣容を整へ給う」神軍が存在したというのだ。神武天皇という神が率いる神軍、それが皇軍の出発だったと強調する。明治15年(1882)の軍人勅諭はその冒頭で、「我が国の軍隊は世世天皇の統率し給ふ所にそある」とあるが、それは神武天皇が神軍を率いてこの国を平定した建軍の本義を説いていると解釈するのである。日本が戦って負けたことがないのは、神に率いられた軍隊だからである。我々はなんと幸せな時代に生きていることか、大東亜共栄圏を建設するという聖業の時代に生きているのだからということになる。
神兵、つまり神の兵隊という時代に生きているこの幸せを自覚しなければならないとも説くのである。天皇を神格化して神とし、それに忠誠を誓う神兵の気持ちは何と幸せなのだろうかと繰り返す。戦国時代や江戸時代のように、忠誠の対象を間違えて主君に仕えていた時代と比べると、神武天皇の時代に戻った現在、我々は何と充実した時代に生きていることか――とも、この『皇軍史』は説くのである。