安田さん解放の「自己責任論」も「英雄論」も意味がない 危険取材の現場から

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「私たちの苦境を報じてくれるメディアがいない」

   わかりやすい例えがある。

   2011年3月の東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発の原子炉が水素爆発を起こしたとき、大手メディアの記者が一斉に原発から30キロ圏の安全地帯まで引き上げたことを覚えているだろうか。

   フリージャーナリストの立場で、業界紙の医薬経済社と契約している私は、医療関係の取材をするために被災直後から現地に入っていた。原発の爆発が続いていた時だ。相馬市や南相馬市の病院を訪れると、まだ医師も看護師も事務職員も、そこに残っていた。南相馬市の病院では、患者を移送して欲しいと依頼しても消防も自衛隊もなかなかやってこない。看護師もひとり抜けては、またひとり。圏外へと避難していく。絶望的な状況の中で残された看護師たちは、息絶えた患者の身体を泣きながら清拭していたという。被災直後の相馬市の病院の事務長の言葉が忘れられない。

「もう私たちの苦境を報じてくれるメディアがいないから、ここで頑張っていることも誰も知らない。救ってくれる人や機関もなくなってしまう」

   病院の事務長は、諦め顔で話してくれた。

   メディアの記者がいなければ、そこにある真実を国民は知らされないことになる。ネットに情報があふれ、事実に迫る垣根が低くなっている時代に、本当の真実を伝えることの意味をかみしめたい。

   安田さんの身柄拘束は、はたして自己責任なのか、と問われれば、自己責任だと答えるしかない。だから危険を回避するための情報収集やガイドの選定などの対策には念を入れているはずだ。それでも身柄を拘束されたときは、自己責任であろうがなかろうが、国は救出する努力をするのは責務だと思う。だから自己責任を問うことに、どれだけの意味があるのだろう。ましてや彼が「英雄」であるかどうかなど、さらに意味がない。解放された安田さんは、解放交渉に携わってくれた関係者に感謝の意を伝えるべきだと、私は思う。だが、何より知りたいのは、安田さんが何を伝えたかったのかに尽きる。

(ノンフィクション作家 辰濃哲郎)

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