37年前にいた「幻の日本人NBA選手」 岡山恭崇氏がドラフト指名を蹴った理由

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   NBAのグリズリーズが2018年10月27日、米テネシー州メンフィスでサンズと対戦し、117-96でサンズを下した。今試合でグリズリーズとツーウェー契約を結ぶ渡辺雄太選手が第4Q残り4分31秒から出場し、念願のNBAデビューを果たした。

   日本人がNBAの舞台に上がるのは、2004年にサンズに所属した田臥勇太氏以来、14年ぶり2人目。渡辺選手は残り1分40秒に相手のファウルからフリースローを2本決めて初得点を挙げるなど、チームの勝利に貢献した。

   NBAに新たな歴史を刻んだ渡辺選手だが、37年前の1981年に日本人初のNBA選手が誕生しようとしていたことをご存じだろうか。

   この年のNBAドラフトで、ゴールデンステート・ウォリアーズからドラフト8巡の10番目で指名を受けた日本人選手がいた。その選手は日本不動のセンター岡山恭崇氏だった。

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バスケを始めて5年目で全日本入り

   当時のNBA選手に劣らぬ218センチ、138キロの体格の持ち主は、日本リーグで得点王、敢闘賞の多くのタイトルを獲得。1979年から8年間、日本代表の中心的な選手として活躍した。

   熊本県出身の岡山氏は、中学高校は柔道選手で2段を取得したほどの腕前だった。九州学院高卒業にあたり、いくつかの大学から柔道選手としてスカウトされたが、岡山氏が選択したのは、これまで経験のないバスケットだった。

   大学時代に基礎をみっちりと叩き込まれ、1979年に住友金属工業に入社。日本リーグでは新人王を獲得するなど、社会人1年目、バスケットを始めて5年目にして日本代表入りを果たした。

   この2年後に岡山選手はNBAのドラフトにかけられ、ウォリアーズから指名を受けたが、これを受けることはなかった。

NBAよりも...諦められなかった五輪への夢

   その理由は「五輪」だった。

   当時、国際バスケットボール連盟(FIBA)は、米国とソ連(当時)の強い反対もありプロ選手の五輪出場を認めていなかった。1984年ロサンゼルス五輪を目指していた岡山選手は、五輪に出場するためにNBA入りを拒否せざるを得なかった。

   NBAがプロ選手の参加を認めたのは岡山氏引退の2年後、1992年のバルセロナ五輪からである。ここで生まれたのが米代表の「ドリームチーム」だ。

   マイケル・ジョーダン選手、チャールズ・バークレー選手、マジック・ジョンソン選手ら、当時のNBAのスーパースターが顔をそろえ、圧倒的な強さで金メダルを獲得した。

   NBAにおいて、近年では中国出身の身長229センチを誇る姚明選手(ヤオ・ミン)が、2002年から10年間、ロケッツで活躍した。アジア人選手がNBAで中心選手としてプレーするのは、姚明選手が初めてで、「歩く万里の長城」のニックネームで全米NBAファンから支持を受け、姚明選手の背番号「11」はチームの永久欠番となっている。

   岡山氏は姚明選手がNBAの舞台に登場する20年以上も前にドラフトにかけられた。もし、当時、NBA選手の五輪出場が可能だったなら...。ついに岡山さんはNBAでプレーすることはなかったが、20世紀を代表するアジア人のバスケット選手だったことは間違いないだろう。

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