37年前にいた「幻の日本人NBA選手」 岡山恭崇氏がドラフト指名を蹴った理由

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NBAよりも...諦められなかった五輪への夢

   その理由は「五輪」だった。

   当時、国際バスケットボール連盟(FIBA)は、米国とソ連(当時)の強い反対もありプロ選手の五輪出場を認めていなかった。1984年ロサンゼルス五輪を目指していた岡山選手は、五輪に出場するためにNBA入りを拒否せざるを得なかった。

   NBAがプロ選手の参加を認めたのは岡山氏引退の2年後、1992年のバルセロナ五輪からである。ここで生まれたのが米代表の「ドリームチーム」だ。

   マイケル・ジョーダン選手、チャールズ・バークレー選手、マジック・ジョンソン選手ら、当時のNBAのスーパースターが顔をそろえ、圧倒的な強さで金メダルを獲得した。

   NBAにおいて、近年では中国出身の身長229センチを誇る姚明選手(ヤオ・ミン)が、2002年から10年間、ロケッツで活躍した。アジア人選手がNBAで中心選手としてプレーするのは、姚明選手が初めてで、「歩く万里の長城」のニックネームで全米NBAファンから支持を受け、姚明選手の背番号「11」はチームの永久欠番となっている。

   岡山氏は姚明選手がNBAの舞台に登場する20年以上も前にドラフトにかけられた。もし、当時、NBA選手の五輪出場が可能だったなら...。ついに岡山さんはNBAでプレーすることはなかったが、20世紀を代表するアジア人のバスケット選手だったことは間違いないだろう。

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