生前、記者が見た「マラソンへの執念」 元五輪代表・真木和さんが死去

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   陸上競技で1992年バルセロナ、1996年アトランタ五輪に出場した真木和(まき・いずみ、現姓山岡)さんが死去したことが2018年10月24日、分かった。関係者の話によると、近年、乳がんを患い抗がん剤治療を続けていたという。10月18日に大阪府箕面市の自宅で死去した。享年49。

   愛媛県出身の真木さんは、今治北高を卒業しワコールに入社。高校時代は全国的な実績はなかったが、ワコール入社後は駅伝などで鍛え、長距離選手として日本を代表する選手まで成長した。

   1992年には1万メートルで日本記録をマークし、バルセロナ五輪1万メートルに出場。初の五輪では積極的な走りを見せながらも入賞を逃して12位に終わった。

   駅伝ではワコールのエースとしてチームの全国優勝に貢献した。髪の毛を短く刈り上げ、ボーイッシュでスタイリッシュな走りを見せる真木さんは同性の陸上選手からの人気も高く、真木さんに憧れてワコールに入社した選手も少なくなかった。

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ハローワークに通いながらの競技生活

   真木さんに憧れてワコールに入社したひとりが、2004年アテネ五輪金メダルの野口みずきさんだった。

   1996年アトランタ五輪後に真木さんは、当時のワコール監督だった藤田信之氏の解任に伴い、自身もチームを離れたが、野口さんも真木さんの背中を追って退職した。当時、2人はハローワークに通いながら練習を続けていた。

   真木さんは2003年の結婚を機にチームを離れたため、翌2004年のアテネ五輪で野口さんをサポートすることはなかったが、競技を離れても2人は深い絆で結ばれ、晩年まで親交は続いたという。

   スポーツ紙で記者として取材していた当時、真木さんは女子駅伝の代名詞的な存在だった。決して後ろを振り向かず、積極果敢に攻める走りで多くの陸上ファンを魅了した。

   ワコールに入社後、長らく1万メートルの選手として日本のトップを走り続けた真木さんは、1996年アトランタ五輪に向けてマラソンに転向した。

   1万メートルで鍛え上げた脚力は世界でもトップクラスで、アトランタ五輪の切符を獲得した1996年3月の名古屋国際女子マラソンでは、バルセロナ五輪金メダリストのワレンティナ・エゴロワ(ロシア)を破って優勝。初マラソン初Vの快挙だった。

真木さんが見せた執念

   ワコール時代、真木さんのコーチをしていたのが、現在、岩谷産業陸上の監督を務める広瀬永和氏だった。

   真木さんは、アトランタ五輪を決めた名古屋国際に出場する前から足を痛めていた。レースでは足の痛みを全く見せずに優勝したが、五輪本番までの4カ月間で完治することはなく、痛みを抱えたままの五輪だった。

   棄権という選択肢もあったろうが、真木さんは足の痛みをおして出場した。前大会の1992年バルセロナ五輪で有森裕子さんが銀メダルを獲得していたことから、当時、女子マラソンへの日本国民の期待は大きかった。

   女子マラソンの代表は、その有森さん、1993年世界選手権優勝の浅利純子さん、真木さんだった。日本初の女子マラソン金メダルへ、世間はこれまでの五輪にはないほどの盛り上がりを見せていた。

   棄権を拒んだ真木さんは、足の痛みからか、10キロ過ぎにトップ集団から脱落。それでも最後まで走りぬき、12位でゴールした。

   かつて真木さんが活躍した全日本実業団対抗女子駅伝の予選会(福岡県宗像市10月21日開催)で、岩谷産業の飯田玲選手が転倒して右すねを骨折し、膝から出血しながら地を這ってゴールしたことが、世間を巻き込んでの騒動になっている。

   くしくも飯田選手を指導するのは、真木さんを指導した広瀬氏だった。

「走らせるべきだった」
「止めるべきだった」

   飯田選手の走りを巡る論争にいまだ、着地点を見いだせていない。

   女子駅伝の象徴として陸上界を牽引し、故障した足が完治しないままアトランタ五輪に挑んだ真木さん。草葉の陰でこの論争をどう思っているのだろうか。

   それを知るすべはもうない。合掌。

(J-CASTニュース編集部 木村直樹)

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