真木さんが見せた執念
ワコール時代、真木さんのコーチをしていたのが、現在、岩谷産業陸上の監督を務める広瀬永和氏だった。
真木さんは、アトランタ五輪を決めた名古屋国際に出場する前から足を痛めていた。レースでは足の痛みを全く見せずに優勝したが、五輪本番までの4カ月間で完治することはなく、痛みを抱えたままの五輪だった。
棄権という選択肢もあったろうが、真木さんは足の痛みをおして出場した。前大会の1992年バルセロナ五輪で有森裕子さんが銀メダルを獲得していたことから、当時、女子マラソンへの日本国民の期待は大きかった。
女子マラソンの代表は、その有森さん、1993年世界選手権優勝の浅利純子さん、真木さんだった。日本初の女子マラソン金メダルへ、世間はこれまでの五輪にはないほどの盛り上がりを見せていた。
棄権を拒んだ真木さんは、足の痛みからか、10キロ過ぎにトップ集団から脱落。それでも最後まで走りぬき、12位でゴールした。
かつて真木さんが活躍した全日本実業団対抗女子駅伝の予選会(福岡県宗像市10月21日開催)で、岩谷産業の飯田玲選手が転倒して右すねを骨折し、膝から出血しながら地を這ってゴールしたことが、世間を巻き込んでの騒動になっている。
くしくも飯田選手を指導するのは、真木さんを指導した広瀬氏だった。
「走らせるべきだった」
「止めるべきだった」
飯田選手の走りを巡る論争にいまだ、着地点を見いだせていない。
女子駅伝の象徴として陸上界を牽引し、故障した足が完治しないままアトランタ五輪に挑んだ真木さん。草葉の陰でこの論争をどう思っているのだろうか。
それを知るすべはもうない。合掌。
(J-CASTニュース編集部 木村直樹)