昭和天皇と軍人の間には、本来なら大元帥とその部下という関係があり、さらに軍人の精神的支柱といった回路ももっている。一方で軍事指導者は天皇の大権を付与されているのだか自らは他の将兵の模範になる心づもりがなければならない。ところが昭和10年代の軍事指導者は全くの考え違いを行なっていた。
東條英機に代表される軍人たちは、自らを天皇の代理人と考えるのである。自分に異議を申し立てるのは、天皇に異議を申し立てるのだと考える。
「いつものように資料はメイキングしますね」
この倒錯した心理が、太平洋戦争を担った軍事指導者に共通している。天皇と自らが一体だとの心理は、社会病理の枠組みに入るという意味を持つ。自分だけが天皇の信頼を得ていて、それゆえ自分の命令は天皇の命令であり、自分の意見は天皇の意見だとの理解のもとで、現実の政治を動かしていったのだ。この自制心なき天皇観がどれほど現実を歪めたかは歴史が充分に示している。軍事指導者たちは、いわば不可視の部分にあってどれほど天皇をないがしろにしていたか、そのこともやはり整理しておかなければならない。
あえて2、3の例を挙げる。太平洋戦争が始まったあと、陸海軍の指導者は天皇に虚偽、あるいは全くの嘘、偽りを伝えている。そのような例は枚挙に暇がないほどだ。典型的な例だが、昭和19(1944)年7月に東條内閣がサイパン陥落を含め、戦況がより一層悪化したために天皇を始め重臣などの信頼を完全に失い、辞職した。変わって小磯國昭内閣が誕生する。海軍では米内光政が海軍大臣に就任し、新たに戦争指導に当たる。その米内に、天皇は「アメリカとの戦力比が現在はどうなっているかを知りたい」と望んだ。米内は、海軍次官の井上成美を呼び、この旨を伝えている。
そこで井上は、海軍省の軍需局長を呼び、この旨を伝えている。すると軍需局長は、井上に向かって、「いつものように資料はメイキングしますね」と答える。井上がメイキングという答えに驚くと、その局長は「これまで嶋田さん(繁太郎、以前の海軍大臣)の時はそうしていましたよ」という驚きの回答を平気で口にする。すくなくとも軍の中央部では基本的な部分で天皇を愚弄していてその時の光景は、まさに不可視の領域のみで密かに演じられていたのである。