昭和の大横綱がまたひとり逝った。
第54代横綱・輪島大士さん(本名・輪島博)が亡くなったことが2018年10月9日、分かった。享年70。
リンカーンで場所に乗り付け
輪島さんは、日大の卒業を2カ月後に控えた1970年初場所、幕下付出(60枚目格)で花籠部屋からデビューした。2年連続で学生横綱となった実力をプロの土俵でもいかんなく発揮し、わずか2場所で十両昇進を決めた。
その後もスピードを緩めることなく出世街道を歩み続け、初土俵から3年半で角界の頂点に登りつめた。横綱時代、故・北の湖前理事長としのぎを削り「輪湖(りんこ)時代」を築くなど、圧倒的な強さを誇る反面、リンカーン・コンチネンタルで場所に乗り付け、派手な私生活や奔放な発言で角界内外から非難されることもたびたびあった。
1981年春場所で現役を引退し、その後は花籠親方として後進の指導に当たった。ただ、親方として協会に在籍したのはわずか4年だった。金銭問題で廃業に追い込まれ、志半ばで協会を去った。
廃業の翌年1986年にプロレス界へ飛び込んだ。オリジナルの必殺技ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)を生み出し、2年間の短い間だったが、レスラー輪島として強烈な印象を残した。
「あの兄弟はまだ仲が悪いの?」
記者が輪島さんと初めて会ったのは、スポーツ紙の記者をしていた2003年の年末である。この年の大晦日に元横綱曙とボブ・サップの異種格闘技戦が名古屋ドームで開催され、輪島さんはこの試合の評論家としてスポーツ紙に寄稿。記者は3日間、「付け人」として輪島さんと行動を共にした。
記者が元相撲担当ということもあり、輪島さんはすぐに心を許してくれた。あれは、名古屋に向かう新幹線の車中だった。相撲の話で盛り上がっていた時、ふいに輪島さんが聞いてきた。
「あの兄弟はまだ仲が悪いの?」
貴乃花と若乃花のことだった。
輪島さんは若貴兄弟の父である故・二子山親方(元大関貴ノ花)と現役時代から仲が良く、花田憲子さんを二子山親方に紹介したのは、輪島さんと言われており、若貴兄弟のことは幼いころから可愛がっていた。
「俺はもう、協会の人間じゃないからさ。詳しいことは分からないから。でもね、兄弟仲良くやるのが一番だよ」
この話題については多くは語らなかったが、眉間に刻まれた深い溝が、輪島さんの胸中を物語っていた。
「とんねるずの生ダラ」で大ブレイク
もうひとつ、強く印象に残っているのが、輪島さんが言った「感謝の心」だ。
金銭問題で角界から追放される形で廃業し、プロレスを引退してからは輪島さんの周囲から潮が引くように人が去っていったという。その中で輪島さんに手を差し伸べたのが、お笑いコンビ、とんねるずの2人だった。
大相撲時代の輪島さんの大ファンだったという、とんねるずの石橋貴明氏のたっての願いで輪島さんは「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」(日本テレビ系)に出演。輪島さんは準レギュラーに定着し、天然ボケタレントとして大活躍し、相撲時代を知らない若者の間で大ブレイクした。
輪島さんによると、この番組がきっかけとなり、テレビ出演などの仕事が増え、不安だった収入面も安定していったという。
「俺ね、タカちゃんとノリちゃんにはすごく感謝してるの。あの二人のおかげで今の俺があるんだから。感謝しきれないくらい感謝してるのよ。この気持ちを忘れたら人生おしまい」
とんねるずの番組の影響かどうかは定かではないが、2009年の初場所8日目にNHKの大相撲中継に出演。不祥事によって廃業した関係者がNHKの大相撲中継に出演するのは異例中の異例のことで、輪島さんが本場所の土俵を観戦したのは、23年ぶりだった。
2003年大晦日、記者は輪島さんと約束した。
「来年は一緒に石川に行こう。俺が全部手配して案内するから。絶対、約束だよ」
あれから15年、約束を果たせないまま輪島さんは逝ってしまった。合掌。
(J-CASTニュース編集部 木村直樹)