保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(15)
天皇に「過酷な運命」強いた帝国主義

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   私は前回の本欄で、平成28(2016)年8月に今上天皇によって発せられたビデオメッセージのことを紹介した。この中で天皇はきわめて曖昧な表現になるにせよ、摂政の難しさを語っていた。

   今上天皇の人間的な感情が、このメッセージにこもっていることを私たちは歴史の文脈で理解する必要がある。特に具体的に名を挙げているわけではないが、大正天皇への思いを汲み取る必要があるだろう。近代日本の中で、大正天皇の実像を考えることは取りも直さず可視と不可視の部分を理解することになる。いわば大正天皇は近代日本史に抑圧された形になっているといえる。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 大正天皇。近代日本史に抑圧されたとも言える存在だ
    大正天皇。近代日本史に抑圧されたとも言える存在だ
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  • 大正天皇。近代日本史に抑圧されたとも言える存在だ

大正天皇が漢詩を詠まなくなった理由

   大正天皇が摂政(皇太子、後の昭和天皇)に天皇としての政務全般を譲ったのは、大正10(1921)年11月のことである。

   この摂政に至るまでの経緯を確認していくと、牧野伸顕宮内大臣や松方正義内大臣らは 大正天皇を懸命に説得している、分かりやすくいうと、あなたはお体の具合がすぐれないのだから、ゆっくりと養生して欲しいと申し出ている。これに対して、『牧野伸顕日記』には、「聖上陛下には唯々アーアーと切り目切り目に仰せられ御点頭遊ばされたり」と書かれている。現実に大正天皇は政務を執ることが難しいというのである。もっともこれが正確か否かは判断の難しいところである。

   なぜなら牧野も松方も大正天皇は天皇としての権威に欠けると見て、早い所摂政に天皇の政務を渡したいと考えていたためである。このことは近代日本の天皇は、軍事に象徴される力強さや素早い身動きが要求されるのであり、大正天皇のように文人肌で、露骨に軍事に対して抵抗する天皇は向いていないとされていたのだ。

   あえて触れておくが、大正天皇は漢詩を詠み、御製を作ることに関しては天才的と言われた。特に漢詩はもし天皇でなければ日本一の詩人たり得たであろうとの評価さえある。あるいは明治44 (1911) 年に伊藤博文が韓国の併合により、李王朝の王位を継ぐ李垠を日本に連れてきた折に、しばしば宮中に参内するのだが、その時に韓国語が話せるものがいないと寂しいだろうと自ら韓国語を覚えて会話をしたというエピソードも残っている。そういう優しさは、本来天皇には必要ではなかった。大正天皇が大正6(1917)年ごろからほとんど漢詩を詠まなくなったのも天皇に要求される軍事上の圧力に不満があったからだろう。

   大正天皇の人間的な性格やその感性に気づくと、天皇は時代の枠組みの中に押し込められ、そこから抜け出すのは容易なことではないとわかってくる。大正天皇の政務室から摂政の部屋に侍従が御名御璽の印を運ぶ時に、大正天皇はそれを抱えて離さなかったと言われている。侍従武官の日記にそれが書かれている。

   平成の天皇が、摂政という制度は残酷だとの意味を漏らしたのは、このような事実を指しているといってもよかった。まさに不可視の部分である。さらにもう一点加えておこう。

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