貴乃花親方が日本相撲協会を退職したことにともない2019年10月1日、貴乃花部屋が消滅した。2横綱2大関を輩出した花籠部屋の流れを汲み、藤島部屋、二子山部屋、貴乃花部屋と名称を変えながら脈々と受け継がれてきた名門が、角界の歴史から消え去った。
かつて、関取の6人にひとりは二子山部屋の力士だったという栄光の時代を築き上げたのが貴乃花親方の父・二子山親方だった。いったい親子の違いはどこにあったのか。貴乃花親方が父を超えられなかった壁が4つあるように思う。
時代に合わない指導法
1982年2月、当時、二子山部屋の部屋付き親方だった故・二子山親方(当時は藤島親方)が東京・中野に藤島部屋を興した。独立してからわずか5年で部屋叩き上げの安芸乃島が関取に。二子山親方の高い指導力もあって、その後も順調に関取を輩出していった。
独立から11年後の1993年2月に二子山親方を襲名し、藤島部屋と合併する形で新生・二子山部屋が誕生。貴乃花、若乃花の両横綱を筆頭に大関貴ノ浪、関脇安芸乃島、貴闘力らを育て、最盛期には11人の関取を抱え、部屋の力士は50人を超えた。
一方、2004年に二子山部屋から名称変更して誕生した貴乃花部屋は、部屋が消滅した時点で関取は小結貴景勝を筆頭に3人、部屋の力士は計8人だった。部屋全体でみれば関取の割合が高いが、所属力士に関しては二子山部屋の比ではない。
厳しい指導で知られた二子山親方だが、貴乃花親方の指導もまた厳しいものだった。午前5時過ぎから朝稽古が始まり、貴乃花親方が終了を告げるまで数時間にわたって稽古が続いた。すでにプロの土俵に立っている力士でも、貴乃花親方の許しが出るまでぶつかり稽古のみで、申し合い(相撲を取る稽古)は禁じられていた。
また、負傷箇所にテーピングをすることも許されなかった。これは貴乃花親方が「力士たるもの土俵上では美しくなければならない」との信念で、貴乃花親方は現役時代、よほどのことがない限り、テーピングをすることはなかった。強靭な体と精神力を持ち合わせていた貴乃花親方だからこそ貫けたもので、並の力士が実践すれば大きな故障につながりかねない。
日本人の中卒新弟子にこだわったこと、内助の功も
貴乃花親方は部屋を立ち上げた当時、海外出身の力士のスカウトをしていなかった。貴乃花親方がこだわったのは中卒の新弟子で、早い出世が見込める大学生にも声をかけることはなかった。これは二子山親方がこだわってきたことで、貴乃花親方は父の信念を継承した形となる。
だが、部屋を興してから4年経っても関取が誕生せず、方針を転換した貴乃花親方は、2008年にモンゴル出身の貴ノ岩をスカウト。この貴ノ岩が2012年名古屋場所で十両に昇進し、貴乃花部屋初の関取誕生となった。
大所帯の二子山部屋を仕切っていたのは貴乃花親方の母である花田憲子さんだ。50人を超える弟子とともに部屋に住み込み、時には弟子たちの母として、時には部屋の広報として陰で部屋を支えてきた。
憲子さんは、ほとんどが中卒の新弟子たちの悩みを実の親に代わって聞き、小遣いを与えるなど私生活で面倒を見てきた。また、メディアの対応窓口を一手に担い、部屋の力士にとって悪いニュースが出れば記者に「教育的指導」を与えるなど、部屋を守ってきた。対照的に貴乃花部屋のおかみさんである景子さんは、角界のしきたりに背くように部屋に住み込むことをせず、部屋通いのおかみさんだった。
スポンサーのサポーター制度
二子山部屋には古くからの「タニマチ」と呼ばれる後援者が全国に存在し、経済的なことから部屋の運営まで幅広く援助してきた。二子山親方の人柄も影響してか、後援者との付き合いは長く続き、貴乃花親方が幕内優勝した際に行われた支度部屋での恒例の万歳三唱には、いつもの顔ぶれが並んでいた。
大口の「タニマチ」の援助に頼らずに、小口のスポンサーを数多く募ったサポーター制を用いた貴乃花親方だったが、結局、この制度は定着しなかった。地方の有力者である後援者を失えば、新弟子の減少に直結する。古くから角界では、地方の有力後援者から新弟子を紹介されることが多く、弟子の増員に一役買ってきた。
以上の4つの理由が、貴乃花親方が父・二子山親方を超えることが出来なかったと考えられる要因である。
(J-CASTニュース編集部 木村直樹)