私のいう不可視の部分というのは、平成28(2016)年8月に今上天皇によって発せられたビデオメッセージのことを指すのだが、この中で天皇はきわめて曖昧な表現になるにせよ、摂政の難しさや晩年の天皇の健康状態による国民の社会生活の萎縮について話された。
これは天皇のきわめて重要な個人的感想だった。つまり天皇しか話せない具体的内容で、父・昭和天皇、祖父・大正天皇の末年を語っていたのである。終身在位のありようは天皇個人の尊厳を傷つけるのではないかとの不安である。天皇自身しか味わえない苦衷がそのまま語られていたと言ってもよかった。
終身在位が「残酷」な理由
知られているように、大正天皇は大正6(1917)年ごろから体調を崩され、療養生活に入られた。好きな漢詩を詠むこともできなくなっている。天皇としての立場に疲れたとの言い方もできる。牧野伸顕らの宮内官僚は摂政をつけることにして大正7(1918)年以後、5回に渡り、大正天皇の健康が優れないことを公式に発表している。
大正10(1921)年の5回目の発表では、大正天皇はご幼少の頃からお脳が弱くと言った類の表現で天皇には向かないと匂わせて摂政の必要性を説いた。このような表現に大正天皇の側近たちは激昂している。なんと失礼な、というわけである。ある侍従武官は、実際に摂政制度が採用されたおりに、大正天皇の政務室に侍従が入り、御名御璽印を持っていこうとすると、大正天皇はその印を抱え込んで離さなかったというエピソードを紹介しているほどだ。まさに残酷である。いや非人間的な処置といってもいいほどである。
今上天皇はそのような事実を指して残酷な制度というのであろう。さらに昭和天皇は崩御の前、2年間ほど病床に伏していた。昭和63(1988)年9月の大量吐血以降、社会では派手な歌舞音曲は中止された。
全体的にエネルギーが枯渇した状態になった。天皇はそのような沈殿した空気が社会を支配的になることに釘を指した。このような発言は天皇のみに許される発言だったのである。
さらに天皇はこのビデオメッセージにより重大な意思表示を行なった。いくつかの伏線が込められてもいたのだ。例えばこのメッセージの初めの文節では、あえて個人として自ら意見を発表すると宣言している。もっとわかりやすくいうならば、これから私が国民の皆さんに訴えることは私が個人という立場で話しているのです、つまり内閣の助言と承認を得て持論は述べられるべきなのに、私はそのような立場から話しているのではないと明言しているのだ。この率直さは重い意味を持つ。憲法に反するとの議論もできるし 、内閣の承認を得ていない以上、天皇の意見は「聞き置く」という段階にとどめておくことでもいい。実際にそういう意見もあった。天皇は何も言わずにただ玉座に座っているだけでも良いというのであった。
「人間天皇」として国民の前に立つ今上天皇
しかしこのビデオメッセージは今上天皇の全存在をかけた「人間宣言」ではなかったかと考えると、これからの天皇のあり方に根本的な問題を提起しているといっていいだろう。
現行の天皇に関する法体系は再検討が必要だともいえる。現在の憲法と旧皇室典範とが支えになっていること自体、矛盾があると、天皇自身が苦言を呈したことになるからだ。明治、大正、昭和とそれぞれの天皇が主体的に意思を国民に向けて、表すことはなかった。そのような意思表示は天皇が主権者として、あるいは大元帥としての立場から、行い得ないと慣例化していた。もしそのような意思表示が日常化したならば、まさに日本の政治、軍事は天皇親政そのものになってしまう。例えば昭和天皇は、立憲君主制の枠の中にいるのではなく、天皇は権力の主体としてこの国の独裁者となってしまう。20世紀の君主制のあり方をみても、それは常に存立の危機と裏腹の関係だといっていいだろう。
しかし今上天皇はこの国家の主権者ではなく、むろん大元帥でもない。「国民統合の象徴」であり、人間天皇として国民の前に立っている。そう考えれば「人間」としての意思表示は当然ということになる。今上天皇自身によって、天皇制のあり方は従来とは異なった形になっていく予兆が、あのビデオメッセージにはあったと結論づけられる。むしろこれからは国民の側が、象徴天皇の道を歩んできた戦後の歴史を通じて、天皇との間にどのような回路や絆つつくりうるのか、が歴史上では問われていることになる。(第15回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。