保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(13)
平成の天皇が変えた「国体」と「政体」の関係

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   近代日本の天皇は、戦争にどのように向き合ったか、を見ていくことは極めて重要である。

   この国の主権者として、あるいは大元帥という立場で戦争の決定、継戦の確認、終戦への道筋に関しての責任を負っているからである。天皇自身の意思そのものより、折々の臣下の者が自らが仕える天皇をどのように考えていたか、によって戦争の内実が変わっているからである。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 2016年8月のビデオメッセージでは、終身在位が制度としていかに過酷かを訴えた(画像は宮内庁提供動画より)
    2016年8月のビデオメッセージでは、終身在位が制度としていかに過酷かを訴えた(画像は宮内庁提供動画より)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 2016年8月のビデオメッセージでは、終身在位が制度としていかに過酷かを訴えた(画像は宮内庁提供動画より)

「おことば」の「憲法を守り」の意味

   一例を挙げれば、日清戦争や日露戦争時に、政治、軍事指導者は明治天皇が戦争に消極的なことを説得している。明治天皇は大本営会議に伊藤博文首相を列席させよと、日清戦争時には特別に注文をつけている。昭和天皇が軍部の暴走に対していかなる手を打てばいいのか、有効な手立てを持っていなかったのとは対照的であった。天皇を政治、軍事の指導者たちがどのように見ていたのか、その違いが戦争という局面では明確に現れて来るように思うのだ。

   明治、大正、そして昭和の前半部には共通点があった。それは一言で言えば、天皇制下の軍事主導体制である。国体があってその下に政体があるとの言い方もできた。 その軍事体制は天皇の個人的意思や思考とは関係がなく、いわば天皇は国家の一機関として存在するかたちになっていた。明治、大正、そして昭和の天皇はいずれも戦争それ自体には反対、ないし消極的であった。その理由は推測はできるが、真の理由は天皇という存在の身にしかわからないというべきかもしれなかった。国体の下に政体があるとみれば、近代日本の天皇は意思を持たざる存在であらねばならなかったと断じていいであろう。

   昭和天皇の戦後の人間天皇、あるいは象徴天皇という姿は、国体の下に政体があるのではなく、むしろ国体と政体は憲法上は五分五分の関係と言ってよかった。しかし昭和天皇は、天皇制下の民主主義体制と考えていたと思われる。やはり国体の下に政体があるとの受け止め方は、戦後の記者会見でも臣下という語で国民を語った時があり、終生その考えは変わらなかったのである。13歳から20歳までの7年余、東宮御学問所で受けた帝王学は身体から離れなかったのである。

   こうした3人の天皇に対して、今上天皇はその図式を根本から変えた。即位後の初めての国民にむけての「おことば」の中にすでにその片鱗は示されていた。私が注目している一節の中に、天皇はこの憲法を守り、それに従って責務を果たすと述べる表現が盛り込まれている。「を守り、それに」というわずか5文字を加えたに過ぎないのに、その意味するところは本質に迫っている。今上天皇は政体の下に国体をつけるという画期的な試みをおこなっている。天皇の位置づけも時代の中で変遷し、そして新しい形が模索されていくのである。

新憲法と旧皇室典範がセットになる矛盾

   今上天皇になって、つまり平成という時代に入ってから天皇の姿はさまざまな面で変化をとげた。いわば新しい形が生み出されてきたのである。明治、大正、昭和の3人の天皇に比べて、平成の天皇は古い形式を次々に変えている。ここには天皇という制度、そして天皇自身の考え方をどこまで、どういう形で表現できるのかといった試みに挑んでいるようにも見える。そのことは国民に可視の部分と不可視の部分があるということにもなる。

   可視の部分ということになるが、平成28(2016)年8月のビデオメッセージによる天皇自身の生前譲位といった大胆な提言がある。天皇は終身在位が制度としていかに過酷かを訴えた。天皇自身が国民に直接にこのような形で呼びかけを行うのは極めて異例である。

   しかしこの背景には不可視の領域も込められている。明治22(1889)年に大日帝国憲法と旧皇室典範が国家の基本的な柱として公布された。いわば両輪である。この旧皇室典範は男系男子を皇位継承者とすることと、終身在位を明文化していた。むろん天皇の健康が優れない時は摂政という制度を認めていた。昭和20(1945)年8月に大日本帝国が戦争に敗れた後、憲法が改正された。その折に皇室典範の改正も議論された。天皇の生前退位を認めるべき、女性天皇も認めるべきだ、といった論もあった。

   このころは東京裁判が行われていた。昭和21(1946)年から22(1947)年にかけての皇室典範改正論議は天皇の退位を認めると、東京裁判の中で天皇の戦争責任が問われるのでは、との政治的判断から皇室典範の柱は変えられなかった。新憲法と旧皇室典範がセットになるような天皇制だった。この矛盾を背負いこむのは天皇ただ一人であった。そこが不可視の部分なのである。私たちには見えない天皇の苦衷がビデオメッセージによって明らかにされた。そのことをきっかけに、今私たちは天皇の提議をより歴史的に考える時を迎えたのである。(第14回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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