新憲法と旧皇室典範がセットになる矛盾
今上天皇になって、つまり平成という時代に入ってから天皇の姿はさまざまな面で変化をとげた。いわば新しい形が生み出されてきたのである。明治、大正、昭和の3人の天皇に比べて、平成の天皇は古い形式を次々に変えている。ここには天皇という制度、そして天皇自身の考え方をどこまで、どういう形で表現できるのかといった試みに挑んでいるようにも見える。そのことは国民に可視の部分と不可視の部分があるということにもなる。
可視の部分ということになるが、平成28(2016)年8月のビデオメッセージによる天皇自身の生前譲位といった大胆な提言がある。天皇は終身在位が制度としていかに過酷かを訴えた。天皇自身が国民に直接にこのような形で呼びかけを行うのは極めて異例である。
しかしこの背景には不可視の領域も込められている。明治22(1889)年に大日帝国憲法と旧皇室典範が国家の基本的な柱として公布された。いわば両輪である。この旧皇室典範は男系男子を皇位継承者とすることと、終身在位を明文化していた。むろん天皇の健康が優れない時は摂政という制度を認めていた。昭和20(1945)年8月に大日本帝国が戦争に敗れた後、憲法が改正された。その折に皇室典範の改正も議論された。天皇の生前退位を認めるべき、女性天皇も認めるべきだ、といった論もあった。
このころは東京裁判が行われていた。昭和21(1946)年から22(1947)年にかけての皇室典範改正論議は天皇の退位を認めると、東京裁判の中で天皇の戦争責任が問われるのでは、との政治的判断から皇室典範の柱は変えられなかった。新憲法と旧皇室典範がセットになるような天皇制だった。この矛盾を背負いこむのは天皇ただ一人であった。そこが不可視の部分なのである。私たちには見えない天皇の苦衷がビデオメッセージによって明らかにされた。そのことをきっかけに、今私たちは天皇の提議をより歴史的に考える時を迎えたのである。(第14回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。