格闘家の山本KID徳郁さんが2018年9月18日、死去した。享年41。8月26日に自身のインスタグラムで、がん闘病を公表し、リング復帰を誓っていた山本さんだったが、病魔に打ち勝つことが出来なかった。この日、山本さんが主宰する「KRAZY BEE」の公式ツイッターで山本さんの死去が報告された。
「神の子」がこの世を去った。レスリングの1972年ミュンヘン五輪代表の山本郁榮さんを父に持ち、姉の美憂さん、妹・聖子さんとともに幼いころから郁榮さんからレスリングの指導を受け、レスリング一家の中で育った。
消えることのない五輪出場の夢
格闘家として数々の栄冠を手にした山本さんだったが、ついに五輪の舞台に立つことは出来なかった。山本家の長男として五輪出場は宿命付けられたもので、「五輪金メダル」が山本さんにとって人生で最大の目標だった。
2000年シドニー五輪が、夢の舞台であるはずだった。前年の1999年の学生選手権で優勝した山本さんは、五輪代表が確実視されていた。だが、五輪代表選考会決勝戦でまさかの敗退。あと一歩のところで夢は消え去った。
その後、プロの格闘家としてリングに上がっていたが、山本さんの心の中に五輪の夢は燻ぶったままだった。2008年北京五輪の選考会を兼ねた2007年の全日本選手権にプロとして出場したが、肩の脱臼により2回戦で敗退。「五輪の神」が山本さんに味方することはなかった。
2000年シドニー五輪の最終選考会を当時スポーツ紙の記者として取材したことがあった。そこで、山本さんの五輪にかける思いを聞くことが出来た。山本さんのモチベーションとなっているものは何だったのか。
父の無念「幻の金メダル」を果たすため
当時、山本さんが語ったことで一番、印象に残っているのが、父・郁榮さんへの思いだった。1972年ミュンヘン五輪に出場した郁榮さんは、金メダル候補のひとりだった。だが、試合では不可解な判定が続き、結果はメダルには遠く及ばず7位。この不可解な判定については、当時、政治的な意向により、東側諸国に有利な判定が下されたのではないかと噂された。郁榮さんと5回戦で対戦したカザロフ(当時ソ連)が金メダルを獲得したこともあり、メディアでは郁榮さんの「幻の金メダル」と報道された。
この出来事を知ったのは、山本さんが5歳だったという。当時の新聞記事を見つけた山本さんの目に入ってきたのが、父が泣き崩れている姿だった。なぜ、父は泣いているのか。その後、詳細を知ることになった山本さんにとって、五輪とは父の無念を晴らすためのリベンジの場所だった。
「長男の俺がオリンピックで金メダルを取ることで父親が報われる。それがすべて」
神の子が見せた希望の笑顔
のちに山本さんがプロの格闘家に転向した際に用いたニックネーム「神の子」。「神」とはまさに父・郁榮さんであり、その子供として誇らしかったからだと言っていた。
上半身を覆う入れ墨と、そのストレートな物言いで世間から誤解を招くこともあった。だが、取材時の山本さんは常に低姿勢で謙虚だった。そして少年のような純粋さを持ち合わせていた。
ついに父の無念を果たすことが出来なかった「神の子」。ただひたすらオリンピックの金メダルを追いかけ、希望に満ち溢れていた22歳の笑顔を今でも忘れることが出来ない。あまりにも早すぎる「神の子」の死だった。
(J-CASTニュース編集部 木村直樹)