保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(12)
太平洋戦争が「神戦」にされた理由

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   昭和天皇は、太平洋戦争の間、常に同じ気持ちだったのではない。日本軍が最終的に勝利するように祈願していたわけではなく、つまりは皇統が守られるか否かの不安との戦いでもあった。

   一方で、軍事指導者は戦争に勝てば全てが解決するとの立場だったのである。天皇の懊悩について考えが及ぶことはなかった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • なぜ太平洋戦争は「神戦」とされたのか(写真はミッドウェー海戦)
    なぜ太平洋戦争は「神戦」とされたのか(写真はミッドウェー海戦)
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昭和のファシズムは天皇をどう捉えたか

   昭和のファシズムは天皇の意思や、その歴史上の多様な形を一切無視して、「天皇」を次のように捉える形で成り立っていた。

   「天皇は、皇祖皇宗の御心のままに我が国を統治し給ふ現御神(あきつみかみ)であらせられる。この現御神(明神)或は現人神(あらひとがみ)と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである」(『国体の本義』昭和12(1937)年、文部省編纂)

   天皇を現御神とし、日本人はその神の懐に抱かれる臣民だとするのである。天皇は「大神の御子孫」であり、上は皇祖皇宗の神霊を奉り、下は神として「万民を率ひ給ふ」国家だともいうのである。そのうえで天皇の大権を付与されている政治、軍事の代表者は、「大御心(おおみこころ)を奉戴して輔弼(ほひつ)の至誠を尽くす」と強調されている。

   このような精神、思想で武装された国家は、当然ながらまさに神がかりになる。太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言ったが)下の昭和18(1943)年に、陸軍の教育総監部は『皇軍史』と題する300ページ余の書を刊行している。陸軍が国民にむけて発した大東亜戦争論といってもいい。この中で強調されているのは、今次の戦争は聖戦であり、まさに神戦というのである。神武天皇が武将、兵士と共に東国を平定していったのは、神に率いられた神兵がこの国(神の国)を作り上げる偉業を成し遂げたということであった。そのうえで、大要、以下のように、全く独自の見解を示す

   <今、我々はなんと幸せな時代に生きているのだろう。神武天皇という神の時代に戦さを続けた神兵の身であり、神に忠誠を誓う建国時の偉業と同じ状況にある。これに比べて、江戸時代をはじめ、戦国時代などの武士は何と不幸なのだろう。彼らは忠誠の対象を間違えて、大名などへの忠誠を誓うといった誤りを犯した。それに比べて今、我々に課せられた責務は重い>と記述するのである。

天皇神格化で責任回避を図った軍事指導者

   このような思想での戦争の内実を見ると、すぐに二つの視点が浮かび上がる。第一は、明治以来の近代日本の到達点がここに見えること。第二は、昭和10年代の日本は近代日本の亜流であると考えるべきこと。この矛盾をどのように説明していくか、それは明治150年を改めて問い直すのにもっとも重要な論点ではないかと私には思えてくる。

   昭和という時代の天皇の立場は意外なことに『皇軍史』の歴史観こういう見方に納得していたとは思えない。天皇自身がどう考えていたかはむろん不明ではあるにせよ、しかし昭和10(1935)年前後の天皇機関説排撃運動などを見ても、天皇の神格化や天皇親政などに強い不満を示しているのはすでに知られている通りである。このことは軍事指導者が国民に冷静な時局判断や情勢分析をさせないようにとの思惑で、天皇の神権化を図っていたといってもいいであろう。そのことは軍事指導者たちが、自らの起こした戦争を正当化するために極端なまでに天皇を神格化することで責任を回避しようとの思惑も伺えてくる。

   しかし、たとえそうであっても、国民が軍部の企図する方向に協力態勢をとったのも事実である。それはなぜか。特高警察や憲兵隊の弾圧に脅えていたこともあるには違いない。そうはいっても国民の側にもこのような天皇神権化に呼応する意識があったといえるだろう。それは幕末から維新にかけての歴史を振り返ればわかることだが、近代日本社会の地下水脈の中には攘夷の思想が生半可に流れていたのである。それが出口を求めて流れを作っていたのだが、昭和10年代に国体明徴運動や反天皇機関説運動が噴出口になり、攘夷のエネルギーは爆発したのである。

   昭和10年代に関して言うならば、私の挙げているこの国の3つの国家像の理念やその枠での思想などは全て攘夷のエネルギーに破れてしまったと言うべきであろう。この攘夷のエネルギーが昭和の超国家主義の源だったと言うのがもっともわかりやすい説明になるはずである。繰り返すが、それは昭和天皇自身のイデオロギーや自己の理解とは異なっていたと考えるべきである。天皇も昭和のファシズムが作り得ていた空間には納得していなかったことをまずは確認しておきたい。

   明治、大正、昭和、そして平成の4人の天皇が、皇統を守るのを自らの役目とし、そしてその手段として祈りや御製を詠むことなどに精出してきた。それが伝統的な生活であった。

   手段に戦争を選んだことを明治の日清、日露両戦争時には、明治天皇はどのように考えたのか、大正天皇は第一次世界戦争のときの参戦についてかなる対応をしたのかを見ていく必要がある。近代日本の実態を確認するためには四人の天皇と戦争の関わりについてさらに深く吟味していかなければとの思いが起こる。それぞれの天皇は、戦争それ自体には一様に消極的であることは認めなければならない。

   天皇が近代日本150年の主役であることは否定できないが、しかしそれぞれの天皇の相違点も確かめていく必要がある。(第13回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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