保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(12)
太平洋戦争が「神戦」にされた理由

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天皇神格化で責任回避を図った軍事指導者

   このような思想での戦争の内実を見ると、すぐに二つの視点が浮かび上がる。第一は、明治以来の近代日本の到達点がここに見えること。第二は、昭和10年代の日本は近代日本の亜流であると考えるべきこと。この矛盾をどのように説明していくか、それは明治150年を改めて問い直すのにもっとも重要な論点ではないかと私には思えてくる。

   昭和という時代の天皇の立場は意外なことに『皇軍史』の歴史観こういう見方に納得していたとは思えない。天皇自身がどう考えていたかはむろん不明ではあるにせよ、しかし昭和10(1935)年前後の天皇機関説排撃運動などを見ても、天皇の神格化や天皇親政などに強い不満を示しているのはすでに知られている通りである。このことは軍事指導者が国民に冷静な時局判断や情勢分析をさせないようにとの思惑で、天皇の神権化を図っていたといってもいいであろう。そのことは軍事指導者たちが、自らの起こした戦争を正当化するために極端なまでに天皇を神格化することで責任を回避しようとの思惑も伺えてくる。

   しかし、たとえそうであっても、国民が軍部の企図する方向に協力態勢をとったのも事実である。それはなぜか。特高警察や憲兵隊の弾圧に脅えていたこともあるには違いない。そうはいっても国民の側にもこのような天皇神権化に呼応する意識があったといえるだろう。それは幕末から維新にかけての歴史を振り返ればわかることだが、近代日本社会の地下水脈の中には攘夷の思想が生半可に流れていたのである。それが出口を求めて流れを作っていたのだが、昭和10年代に国体明徴運動や反天皇機関説運動が噴出口になり、攘夷のエネルギーは爆発したのである。

   昭和10年代に関して言うならば、私の挙げているこの国の3つの国家像の理念やその枠での思想などは全て攘夷のエネルギーに破れてしまったと言うべきであろう。この攘夷のエネルギーが昭和の超国家主義の源だったと言うのがもっともわかりやすい説明になるはずである。繰り返すが、それは昭和天皇自身のイデオロギーや自己の理解とは異なっていたと考えるべきである。天皇も昭和のファシズムが作り得ていた空間には納得していなかったことをまずは確認しておきたい。

   明治、大正、昭和、そして平成の4人の天皇が、皇統を守るのを自らの役目とし、そしてその手段として祈りや御製を詠むことなどに精出してきた。それが伝統的な生活であった。

   手段に戦争を選んだことを明治の日清、日露両戦争時には、明治天皇はどのように考えたのか、大正天皇は第一次世界戦争のときの参戦についてかなる対応をしたのかを見ていく必要がある。近代日本の実態を確認するためには四人の天皇と戦争の関わりについてさらに深く吟味していかなければとの思いが起こる。それぞれの天皇は、戦争それ自体には一様に消極的であることは認めなければならない。

   天皇が近代日本150年の主役であることは否定できないが、しかしそれぞれの天皇の相違点も確かめていく必要がある。(第13回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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