大久保利通がテロに倒れたのは、明治11(1878)年5月14日の午前である。大久保は馬車に乗って役所に向かう途中の紀尾井町で士族の島田一郎ら5人に襲われ、斬殺された。島田らは西郷を討伐した大久保に憎悪の感情でこの挙に出たのである。
彼らが手にしていた斬奸状には、5点が挙げられていたのだが、そこには「公議を途絶し、民権を抑圧し、政治を私すること」「慷慨忠節の士を疎外し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成すること」などがあった。大久保の持つ近代的な政治感覚が否定されていると言ってもよかった。この期のこうしたテロは、江戸時代の価値観に浸かった士族の新時代への抵抗ともいえたのだが、同時に日本人のごく平均的なモラル(復讐の正当性)とも合致しやすい側面があった。
テロに国民が賛意示す空気
それは情念の迸りといった意味もある。こうしたテロは大正期、昭和期にも繰り返された。そのテロに国民が賛意を示すといった空気がこの国の軍事主導体制を補完することになった。
大久保は、この日の朝に会議に出席し、任地に帰る福島県令の山吉盛典の挨拶を自宅で受けた。興が乗ったのか、大久保は自らの国家ビジョンを説いている。それをわかりやすく書くならば、次のようになる。
《ご維新からの十年、今やっと事態は鎮定し、国内の体制も落ち着いた。この十年の混乱のあとの十年は、ご維新の土台固めである。内政を改革し整備を進め、国力の一層の充実を図る期間である。このことが私の成さねばならぬ重要な仕事である。そのための自信もある。そしてそのあとの十年は第一期、第二期の完成をめざす時期である。第二期に、私が成さねばならぬことについては腹案もある。》
大久保が配下の者に語ったこれらのビジョンは結果的に明らかにされずに終わった。しかし大久保の腹案の一端について、推測することは可能である。これは私の推測を交えてのビジョンであるが、大政奉還を名実共にしていくとの思惑がここからはくみ取れる。大久保は生来、政治家の資質を持つ人物であると評されている。このことについて作家の南条範夫が書いているその像がもっとも的確である。
「容易に笑顔を見せぬ、口数の少ない、精悍峻厳な相貌、つねに微塵も崩れない端然たる態度、人々に恐れられはしたが、親しまれることはなかった」(『明治天皇と元勲』)
つまり大久保には、冷徹に計算のできる政治家としての資質があった。この性格で描いていた明治10年代の国家ビジョンとはどのようなものだったかを推測していくのである。