西郷隆盛ら征韓論者を退ける
さてこうした状態を踏まえた上で、明治初年代の政策立案の過程で、新政府の権力の大半を握った大久保は、いわゆる岩倉使節団の名目のもと、明治4(1871)年から6(1873)年にかけてアメリカやヨーロッパの国々の視察に赴いた。2年近くの時間をかけての視察であった。この使節団の評価、あるいは歴史的な意味については、このシリーズでも本格的に取り組みたいと思うのだが、新政府の形はこの使節団の身につけた知識、理論、そして思想に負うところが大きかったのである。大久保はこの体験を通して、安易な排外主義を排する一方で、まずは徹底した内政主導での国づくりを考えた。
使節団の留守の間を担ったのは西郷隆盛や板垣退助、副島種臣らであったが、彼らは征韓論を主張していた。これに対して大久保はこれを認めず 、結局、征韓論の論者たちは野に下った。確かに全国の不平士族の欲求不満を解消するがごときのこの論は政治的にあまりにも乱暴だった。この後の不平士族の反乱、自由民権運動の盛り上がりはこれまで見てきたとおりである。
しかし、その後の明治政府の政策は大久保の政策が、そして大久保が暗殺された後の新政府は山県有朋や伊藤博文らに主導権は移るにせよ、そこには大久保の描いていた国家像があった。それが帝国主義的な国家の姿であった。山県も伊藤も着実にその像の完成を目指した。その可視化された史実の裏側で不可視の国家像を実際に権力を握った指導者たちは考えていたかを探って見るべきであろう。私は、大久保が図らずも暗殺される当日の朝にある人物に語った内容に注目すべきだと思う。そこに大久保の描いていたもう一つの国家の姿があったのではないか。(第10回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。