舞台は最高裁に移る
実は、読売は国の制裁金支払いが決まった2014年6月の社説では「干拓地の営農に大きな悪影響を及ぼさないような開門調査の方法や、被害が生じた場合の補償のあり方などについて、具体的に提案することが重要だ」と、開門を当然の前提とした論調だったが、長崎地裁の「開門差し止め」決定が出た17年4月の社説では「佐賀以外は......和解案を受け入れる姿勢を見せた。膠着状態が続いたこれまでの経緯を考えれば、大きな前進である」と、条件付きながら、国の開門せず・基金創設の路線支持に姿勢を変えており、今回の判決に意を強くして、和解推進を一段と声だかに訴えた格好だ。
ただ、それで漁業者の理解が得られるのだろうか。確かに3紙は、「今回の判決で開門の義務は免れても、漁業者と営農者との紛争を打開する責任を免れるわけではない」(毎日)など国の責任を指摘するが、国の基金案に代わる「解決策」を提示しているわけではない。朝日が「閉め切りによってできた調整池に飛来する野鳥の被害に苦しむ営農者から、開門に理解を示す声があがったり、話し合いの場を設けようと市民団体が署名集めを始めたりするなど、新たな動きも出ている」と指摘しているのが精いっぱいの感はある。
しかし、例えば今回の高裁決定の論拠をとってみても、「判断はあくまで形式論に基づいていないか」(東京)との疑問は当然で、読売でさえ、「漁獲量への影響といった争点には触れず、法解釈に絞った判断手法が際立つ」と、懐疑的な書き方をしているほどだ。
まして、国が長崎地裁で「不戦敗」を狙って「漁業被害について説明せず......思惑通りの判断を得た」(朝日)姑息さは不信感を強めただけだ。何より、開門確定判決を受け、国は「干拓営農地への悪影響を防ぎながら実効性のある調査をするための開門方法や、営農者に被害が出た場合の補償など説得力のある具体策を練る必要があったはずだ」(毎日)が、これをサボタージュしたわけで、「こうした姿勢が、漁業者側の不信感を募らせた」(同)という指摘は重い。
漁業者側の上告で舞台は最高裁に移る。国が漁業者にどこまで寄り添えるのかが問われることになる。