明治初年代から10年代の自由民権運動の動きは、この国の底力を示すとともに、国民の知的高揚の結果というべき意味もあった。明治政府はまだ国家像が充分に固まっていないとはいえ、小学校教員や軍人たちに国家主義教育とその忠誠心を強く要求した。教育と軍事を国の歯車と考えたわけである。結果的に帝国主義的国家を目指すことになるのだが、この二つの職種は当初からそのような国家のつゆ払いの役を果たしていたのである。
国民の知的関心に依拠する民権運動
この教育と軍事に抗して、民権運動は国民の知的関心に依拠することになったとも言えるように思う。民権運動に従事する青年層に明治初期に開校した私学出身者が圧倒的に多かったのは、新しい理論そのものが私学が仲介の役を果たしたからであった。例えば慶応義塾は英国型の自由主義的理論を、京都の同志社はキリスト教型の人間教育を、中江兆民は自ら仏学塾をつくり、フランスの民権論を学ぶべき教育機関とした。板垣退助の立志社は民権論の啓蒙機関の役目も果たしたのである。植木枝盛などはこうした機関から巣立ったといっても良いであろう。
同時に明治10年代には、民権運動の新しい活動家が生まれた。つまり自らの生活や人生をその思想に懸けるといったタイプが登場したのである。このことについて植木は、自らは「究スト雖トモ、法ト理トニハ之ニ従フモノナリ」っいったように法と理とには民権を守る立場から従うというのであった。彼らの国会開設は民権守護の原則に成り立っていた。
あえてここでは中江兆民について触れておくが、兆民は明治4年の岩倉使節団の一員として欧米の視察にでかけて、そのままフランスに残り、民権論を学んできた。明治8年に日本にもどり、仏学塾をひらいた。兆民はここで向学心をもつ青年学徒にフランスの自由民権論を徹底的に教え込んだ。兆民自身は政府に勤めるように説得されるが、自らの思想は政府に受け入れないことを知っていたのである。政府と相容れない立場を貫くのは覚悟が必要とされる時代であった。この期にそれを覚悟したのは民権思想に人生を懸けるとの信念があったからだった。
兆民は明治14年に東洋自由新聞に加わっている。この新聞は民権運動の活動家やフランスの民権思想に関心を持つ人たちにより編集を続けようとの意図があった。社長に西園寺公望を据えるなど、民権運動の牙城になろうとの意気込みを同人たちは持っていた。
兆民は主筆に座った。このことは山県有朋や伊藤博文を驚愕せしめた。西園寺は五摂家の有力な家柄で、まさに天皇周辺が民権運動を容認していることになったのである。
この新聞は60日ほどで廃刊に至るのだが、この経緯を見ていくと西園寺は明治天皇の命令によって社長職を離れている。いわば勅命である。むろんこの背景には新政府の要人たちによる働きかけがあったといっていいだろう。それも強引に勅命を出させたといってもいいのではないかと、私は考えている。
政権打倒の影に怯えた新政府
新政府は政権打倒の影に怯え、恐怖したといってもいい。くりかえすことになるのだが、新政府が 明治15年から徹底した弾圧策を講じていくのを見ても、この恐怖心の大きさを容易に想像できるのだ。さらに輪をかけていたのが新政権内部の対立であった。
新政権は北海道開拓に投じた官有の施設などを身内で極端に安く、払い下げようとして批判を浴びていた。参議の大隈重信らはこのような事態を憂い、英国型の立憲政治を主張して、プロイセン型の君主政治に傾く伊藤博文らと対立している。この権力闘争は大隈を政府から追放、そして明治23年には国会開設を行うとの方針で、事態を収めることになった(これが明治14年の政変である)。ここに至るまで、伊藤、山県らは大隈が民権運動の活動家と連携しているのではないかと疑心暗鬼になっている。その恐れが、国会開設などの方針を勅命という形で出さざるを得なかったのである。
こうした状況を丁寧に分析していくと、新政府の立場はいかに脆いものであったかが理解できる。天皇の助力を得ることで辛うじて政権の維持ができたのである。自由民権運動のその本質は、この期の自由党成立のプロセスの内部を解剖することにより、明らかになってくるが、自由党の指導部が大隈の立憲改進党との連携か否かの局面で分裂を起こしたことなど歴史の「不可視」の部分をより精緻に確認すべきなのであろう。(第9回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。