「彼女」の似顔絵が、警視庁のウェブサイトに掲載されている。中肉中背、髪は茶色のセミロング。小鼻の脇のほくろが少し目立つが、おとなしそうな、整った顔立ちの若い女性だ。年齢は20~40歳ほど、とある。服装の雰囲気からすると、筆者(32歳)とほぼ同年代かもしれない。
2017年4月29日、夜21時前。涼しい風の吹く、晩春の夜。彼女の姿は、東京都羽村(はむら)市内の踏切にあった。ベージュのコートを羽織り、手には白のハンドバッグ。そして左手の薬指には、ティファニーの指輪が光っていた。
「本籍・住所・氏名不詳、年齢推定20~30歳代位の女性」
新宿からJRでおよそ1時間の羽村駅。そこからさらに10分強歩いたところに、その踏切はある。車一台がようやく通るような、こぢんまりとした踏切だ。近所は住宅街だが、この時間ともなれば人通りもまれである。
世間はゴールデンウイークの第一日目、薄曇りの過ごしやすい気候だった。連休初日を終え、都心から帰途につく人々を乗せた青梅方面行きの電車が、スピードを上げて、踏切に差し掛かる。
鈍い音とともに、電車は緊急停車した。はねられた女性は、間もなく死亡が確認された。
JR青梅線・羽村~小作間の踏切で起こった、一件の事故。取り上げた新聞はない。遅延を引き起こした「人身事故」として、わずかにネット上で、断片的な情報が伝えられたのみである。
身元は分からなかった。遺留品は衣類とバッグ、そして左手薬指の指輪くらいだった。およそ5カ月後の10月4日、政府が刊行する官報に、羽村市からこんな公告が掲載された。
「本籍・住所・氏名不詳、年齢推定20~30歳代位の女性、身長160cm、中肉、茶髪セミロング、鼻の左横に米粒大のほくろ、左手薬指にティファニーの指輪、ベージュ色コート、黒色ズボン、灰色パンプス(25cm)
上記の者は、平成29年4月29日午後8時53分頃東京都羽村市緑ヶ丘×××、JR青梅線×××踏切内において列車に轢かれ死亡したもので、身元不明のため火葬に付し、遺骨は保管してあります。心当たりの方は当市福祉健康部社会福祉課まで申し出てください」(原文では番地なども表記。以下、必要に応じて伏せ字とする)
「氏名不詳」の遺体――彼女は、行旅死亡人(こうりょしぼうにん)となった。
現代の「行き倒れ」たち
行旅死亡人。いささか乱暴に要約するならば、それは、
「引き取り手がなく、自治体にゆだねられた『身元不明』の死者」
ということになる。
身元不明の遺体が見つかった場合、まず対応するのは警察だ。一通り捜査が終わると、今度は遺留品とともに自治体に引き渡される。自治体では火葬に回すとともに、戸籍などをさらに精査する。それでもなお身元がわからない場合、その死者は行旅死亡人となり、官報に公表される。
根拠となるのは、「行旅病人及行旅死亡人取扱法」だ。明治32年=1899年に作られた古い法律である。条文からして「此ノ法律ニ於テ行旅病人ト称スルハ歩行ニ堪ヘサル行旅中ノ病人ニシテ......」といかめしい。
当時、この法律が想定していたのは、「行き倒れ」と呼ばれるような困窮者だった。しかし現代は、さまざまな事情を持つ人々が、「行旅死亡人」として取り扱われている。
※なお、身元は判明しても、親族が引き取りを拒否するケースも多い。その場合、墓地埋葬法に基づき、行旅死亡人と同じように自治体に、その遺体・遺留品がゆだねられることとなる。こうした人も「行旅死亡人」と呼ぶ自治体も少なくない。この記事では広義の行旅死亡人として扱い、狭義のものと合わせて「」付きの「行旅死亡人」と表記する。
92万7523円を遺した荒川のホームレス
典型例の一つは、「ホームレス」や「日雇い労働者」だ。J-CASTニュースの調べでは、2017年度に都内の自治体から公表された行旅死亡人81人のうち18人が、発見時の状況などからホームレス、あるいは日雇い労働者と推定される。
その一人、ある行旅死亡人を訪ねることをした。
東京メトロ東西線・西葛西駅。まっすぐ西へ歩くこと15分。ファミリー向けのマンションが並ぶ地区を抜け、堤防を上ると、風がごうごう音を立てるとともに、荒川のパノラマが目の前に広がる。
2017年8月10日、江戸川区がこの河川敷で亡くなった男性を、官報に掲載している。
「本籍・住所・氏名不詳(推定鈴木栄)、推定年齢70歳位の男性(推定昭和18年7月23日生)、身長163センチメートル、体格中肉、坊主、右人差し指第一関節欠損、財布、安全衛生教育手帳、特別教育修了証、安全研修修了証、手帳、アドレス帳、玉掛技能講習修了証、年金手帳、郵便物、預金通帳、ケース、印鑑、朱肉、現金927,523円 上記の者は平成29年5月26日午後1時31分頃、江戸川区西葛西××××先荒川河川敷テント内で発見されたものです。
身元不明のため遺体は火葬に付し、遺骨を保管してありますので、心当たりの方は、当区福祉部福祉推進課までお申し出ください」
欠けた人差し指、そして数々の資格証からすると、長らく現場作業員として生計を立てていたらしい。だが、何より目を惹くのは、92万7523円という高額な所持金だ。
赤文字で「死死死死死死」の落書き
公告を頼りに河川敷を歩く。さすがに1年以上が経っていることもあり、それらしい痕跡はなかなか見つからない。そもそも、一角はきれいに遊歩道として整備されており、人が住めるようなテントの類自体、姿は見えない。
探し回ること40分、橋の下に落書きを見かけた。赤い塗料で描かれたもので、「死死死死死死」「in」といった文字、そして矢印が橋下のスペースに向けて伸びている。
矢印の向かう先に目を転じる。そのスペースは、柵で囲われていた。ホームレスの定住を防ぐためだろう。今は「住人」はいないようだ。しかし、そこにはボロボロの布団、そして朽ちた衣類が残されていた。
地番からは少しずれる。だが、ここが男性の「終の棲家」だったのかもしれない。ひとまず手を合わせた。
日本では今、5000人前後がホームレスとして暮らしている。厚生労働省が2017年9月発表した調査結果によれば、平均年齢は61.5歳。19.7%が70歳以上だ。健康に不安を抱える人は、27.1%に上る。
ホームレスの多い荒川河川敷だが、この一角はサイクリングコースや遊歩道として整備が進む。きれいな舗装。立ち並ぶ柵。70歳近い男性は次第に肩身が狭くなっていただろう。現場で働くことも、だんだん難しくなる。人知れず持っていた「貯金」は、今後のための備えだったか。
行旅死亡人の遺した金銭は、基本的にはその葬祭費用に充てられる。それでも余れば、家裁への申し立てを経て、国庫へと入る。
95歳、名前がわかっていても行旅死亡人に
とはいえ、ホームレスは行旅死亡人の中で、必ずしも「多数派」ではない。17年度の都内の行旅死亡人81人のうち、最も多い(26人)のは、自宅や病院で亡くなるなど、身元がある程度わかるはずの人々だ。
どうして、こうした人たちが行旅死亡人となるのか。
2017年12月20日ごろ、墨田区で、一人の高齢男性が亡くなった。
遺体が見つかったのは、小さなアパートの一室だ。実際に赴くと、古びてはいるものの、手入れの行き届いた建物である。目と鼻の先には小学校が。再開発が進む一帯だが、辺りはまだ下町の風情が残っている。玄関先に立ってみると、小学校の校舎越しに、スカイツリーの頭が覗いていた。
部屋の主の名は「永井松之助」。当時95歳。とすれば、1922年(大正11年)前後の生まれ。当時の大スターだった尾上松之助にあやかった名前だろうか。晩年の日々を、生活保護を受けながら暮らしていた。
部屋には遺留品として、永井さん名義の通帳や保険証などもあった。年恰好からしても、亡くなったのが永井さんであることはまず間違いない。
ところが、だ。この男性は、「身元不明の遺体」として、行旅死亡人となった。
墨田区の担当者はこう説明する。
「この方の場合、ご存命の親族がおられなかったため、DNA鑑定などで『本人』だということを確定できませんでした。身元がはっきりわからない以上、やむなく行旅死亡人として扱うことになったのです」
もし遺体の男性が、永井さんになりすました別人だとしたら。もちろん、そんなことはまずないだろう。だが万が一そうだった場合、この遺体を永井さんとして処理すると、本来は「生きているかもしれない」永井さんを、戸籍上「死亡」させてしまうことになる。
こうした問題を防ぐためにも、男性は「本籍・住所不詳、年齢95歳位の男性」=行旅死亡人にせざるを得なかった。自治体としても、苦渋の決断だ。だが、逆に言えば、「亡くなったかもしれない」永井さんは、戸籍上そのまま「生存」し続けることになる――。
行旅死亡人データベースを作った男性
こうした行旅死亡人について、情報をまとめ続けている個人サイトがある。「行旅死亡人データベース」。筆者も、今回の取材ではずいぶんお世話になった。
行旅死亡人が掲載されている「官報」は、過去1カ月分が無料で閲覧できる。しかしそれ以前のものは、有料プランに申し込むか、図書館などで調べるしかない。一方、この「行旅死亡人データベース」では、2010年以降の行旅死亡人について、地域別・性別・年齢別にアーカイブされている(なお、官報の内容には著作権はないとされる)。
運営しているのは、29歳の男性だ。システムエンジニアとして働く傍ら、このサイトを立ち上げたという。ツイッターのダイレクトメッセージ(DM)を通じて、取材を申し込んだ。
「富士の樹海や東尋坊で自殺者の見回りをしている人のニュースを見て、世の中に人知れず死んでいる人はどの程度いるのだろうと疑問を抱くようになり、色々と調べていくうちに、行旅死亡人に行き着きました」
男性は行旅死亡人に興味を持ったきっかけを、こう説明する。
いろいろ調べるうち、行旅死亡人の情報を一覧で観たり、検索したりすることができるサイトが、どこにもないことに気づいた(官報の有料プランにしても、それほど詳細な検索はできない)。ならば自分が作るしかない、と思い立ち、2017年6月にサイトを開設した。
運営していて、何か印象に残ったケースなどはあるだろうか。
「1年もやっていると、慣れからか何も思わなくなってしまったのですが」――管理人の男性は前置きしてから、こう続けた。
「私には1歳の娘がいますので、乳幼児の行旅死亡人には心が痛みます」
ミイラ化した赤ちゃんの「心当たりのある方」は
乳幼児の行旅死亡人。以下は2018年2月28日、世田谷区から出された公告である。
「本籍・住所不詳、氏名不詳、身長50.5センチメートル、体重314グラム、女性えい児 上記の者は、平成29年4月6日、世田谷区船橋××××にある集合住宅の一室にて天袋内のボストンバッグ内より発見されました。死後40年以上を経過していると推定されます。身元不明のため、遺体は火葬に付し、遺骨は保管してあります。心当たりのある方は、世田谷区保健福祉部生活福祉担当課まで申し出てください」
発見現場は、世田谷区にある大型団地だ。
当時のNHKなどの報道によると、問題の部屋には高齢の男性が1人で暮らしていた。家賃の滞納が続いたため、裁判所の職員が部屋に踏み込んだところ、押し入れ上の天袋に、不審なボストンバッグを見つけた。開くとそこには、乳児の遺体があったという。布おむつを付け、すでにミイラ化していた。
ところが住民の男性は、このミイラについて「知らない」と言い張った。
発見からおよそ1年弱、遺体はひっそりと行旅死亡人として公表される。捜査が進展した、とのニュースはない。つまり、結局身元はわからず、住民に引き取られることもなかったわけだ。
乳幼児の行旅死亡人は、決してまれではない。「行旅死亡人データベース」収録の2010年以降だけでも、70件以上が確認できる。生まれた直後に遺棄されたものや、死産となった胎児、また今回のように、なんらかの事情で死亡後、葬られることなく放置されていた例などが中心だ。
この団地の乳児はその後、「心当たりのある方」が名乗り出ただろうか。世田谷区の担当者に尋ねたが、「回答できない」とのことだった。現実的に考えれば、可能性は低いだろう。
発見現場の部屋は8月現在、空室だ。しかし玄関先には、NHKの受信票や国勢調査のシールなど、前住民の痕跡がまだ残る。その一つ、30年近く前の赤十字のステッカーには、こんな標語が記されていた。
「幼い生命に手を差し伸べて」
「なるべくご家族にお渡ししたいのですが...」
「行旅死亡人」を担当するのは、市区町村の中でも福祉系の部署である。東京23区の場合、今回取材した範囲ではそれぞれ年間20~50人ほどの「行旅死亡人」(広義のものも含む)を取り扱っている。
「死」に直接向き合う仕事は、当然楽なものではない。精神的な負担もある。世間の関心も小さい。ある職員は、「そもそも、自治体がこういうことをやっている、ということ自体、あまり知られていないので......」と漏らす。
だが、今回話を聞いた担当者たちは、多くが真摯に死者に向き合っていた。
できることなら、「行旅死亡人」という形で葬ることは避けてあげたい。なんとか身元がわからないか。手掛かりはみつからないか。
とはいえ、そこには大きな壁がある。板橋区の担当者は語る。
「なるべくでしたら合葬にするよりも、ご家族にお渡ししたいのです。ですから、警察から引き渡された後、こちらでもできる限り戸籍などを調べて、遠い親族の方でもご連絡しています。ですが、すでに亡くなっていたり、あるいは疎遠だったりと、なかなか難しいのが実情です」
ようやく身元を突き止め、親戚に連絡を取る。「××さんが亡くなられたので、遺体を引き取ってもらえないでしょうか」――だが、返ってくるのは「拒絶」の答えだ。
「『絶縁しているので』、あるいは『自分も高齢・病気で、遠方に住んでいる。東京まで引き取りには行けない』。そうなると、区で扱うほかありません」
辛さをにじませるのは、新宿区の担当者だ。
「行旅死亡人」の多くは高齢者である。その近い親類も、高齢の場合が多い。特に地方在住だと、わざわざ上京してまで、何年も付き合いがなかった親類を引き取るというのは、負担が大きい。
身元が明らかになっても、引き取り手がなければ、墓地埋葬法に基づいて、自治体の手で合葬されることとなる。結局は、広い意味での「行旅死亡人」となるわけだ。ある職員のつぶやきが耳に残った。
「問題は身寄りが『見つからない』ことじゃないんです。『引き取ってくれる人がいない』ことなんですよ」
4人に3人は「男性」、約20%が30代以下
「行旅死亡人」についてのまとまった統計は、実はほとんどない。
厚生労働省や、官報を発行する国立印刷局に問い合わせたが、「国では件数は把握していない」(厚労省)、「特定の記事について、年間掲載件数は把握していないとのことです」(国立印刷局)との回答が。あくまで地方自治体の管轄、という理由からだ。
今回の取材でわかる範囲で、その輪郭をまとめておこう。
「行旅死亡人データベース」を元に筆者が調べたところ、2017年度の届け出件数は600弱(数字はいずれも8月9日時点)。また2010年以降の事例のうち(8048件)、4分の3にあたる75.9%が男性である。年齢は、60代が最多で825件だ(推定年齢がわかる累計2034件中)。一方で10代未満(79件)、20代(133件)、30代(190件)と、若い世代も決して少なくない。概算ではあるが、全体の20%前後が30代以下ということになる。
行旅死亡人が官報に掲載されるのは、身寄りを探し出すためだ。だが、掲載が遺骨の引き取りに結びついたケースは、墨田区で2017年度に1件あったのを除くと、「ここ数年、聞いたことがない」(板橋区)といった回答がほとんどである。
2017年度の板橋区では行旅死亡人5件に対し、墓地埋葬法が適用された「身寄りのない死者」は19件。墨田区が4件/33件。新宿区が5件/40件。およそ4~8倍だ。これがそのまま全国に適用できるとは限らないが、仮に4倍だとすると、年に3000人弱が「行旅死亡人」として弔われた計算になる。なお2017年度の江戸川区では、「行旅死亡人」の死因は42.6%が病死、7.4%が自殺で、50%が不詳だった。
段ボール箱に収められた遺留品
2018年7月下旬。あまりの暑さにしまい込んでいたスーツを引っ張り出し、都内のある役所を訪れた。この日は珍しく30度程度だったが、さすがにワイシャツには汗がにじむ。
「行旅死亡人」の遺骨は1~5年程度を目途に保管され(自治体によって異なる)、その後、いわゆる「無縁仏」として合葬される。一方、遺留品は多くの場合、自治体に長く保管され続ける。
久々のスーツを着込んだのは、その遺留品のためだ。自治体の名前を出さないことを条件に、「行旅死亡人」の遺留品の現物を見せてもらえることになったのである。
およそ10年分だという遺留品は、倉庫の段ボール箱4つに収められていた。透明のジッパー袋で人物別に小分けにされ、それが年ごとの大きなビニール袋に詰められている。衣類などかさばるものや些末な品は処分されており、多くは貴重品類のみだ。
キャッシュカードやクレジットカード。PASMO。預金通帳。写真付きの身分証。ちょっと古い型のスマートフォン。キーホルダー付きのカギ。おしゃれな腕時計。革の財布。自筆のメモ類――。
断片にはすぎないが、そこからは「行旅死亡人」たちの生前が、ある程度うかがえる。
僕らが「行旅」になってもおかしくない
70代後半で亡くなった、ある人物の遺留品には、2枚の写真付き会員証があった。
一つは、50年近く前に作ったと思われる。まだ20代だろうか。はにかみ気味の笑顔が印象的だ。もう一つは、死の少し前のものである。硬い表情で写る老人には、確かに先ほどの青年の面影がある。
出身は地方だ。いつのころか上京し、そのまま東京で亡くなった。遺留品の中には、知人からとみられる年賀状もあった。周囲との付き合いもあったわけだ。
しかしこの人物も死後、引き取り手がなく「行旅死亡人」となった。
こうして遺留品を実際に見てみると、ひとつのことがわかる。少なくない人が、死の直前まで、ごく普通の暮らしをしていたことだ。つまり極端な貧困とか、天涯孤独とかでなく、である。
自分の身に置き換えて考えてみる。筆者もまた、地方出身の上京組だ。しかも独身である。友人はとにかく、近くに親類縁者がいるわけでもない。
今もし死ねば(死にたくないが)、さすがに実家の両親がなんとかしてくれるだろう。では独身のまま年を取り、両親が亡くなった場合は?
妹とは今のところ仲がいい。だが万が一何かでもめ、疎遠になったら。あるいは、妹より長生きしたら。こないだ生まれたばかりの甥っ子は、引き取ってくれるだろうか?
別の行旅死亡人が遺した、黒の小銭入れが目に留まる。人気のカジュアル系ブランドの品だ。同封の書類によれば、持ち主の氏名は不詳、「30~35歳の男性」。自分と同性、同世代だった。
踏切に供えられた、色のない花
2018年8月6日夜。取材の締めくくりとして、羽村市に向かった。冒頭に取り上げた、「指輪の女性」の現場である。
この日は夜になるとともに、雨が降り出した。傘を差して、羽村駅東口から線路沿いに歩いていく。雨脚は思ったよりも強く、10分も歩くうちに、荷物はずぶ濡れに。カメラだけでもかばいながら、暗い裏道を歩く。
羽村市によれば、7月末時点で、彼女の身元は明らかになっていない。遺留品も、「轢死であり(中略)損傷が激しかったため」遺体とともに荼毘に付されたという。ティファニーの指輪も一緒だろうか。
駅から数えて、3つ目の踏切が、彼女の亡くなった場所だ。雨のせいもあってか、あたりは真っ暗で、人通りもほとんどない。
「おや」と思ったのは、踏切脇の金網フェンスに、2束の花が挿されていたことである。供えられて相当時間が経つらしい。すっかり枯れ果て、色も抜けきっている。
その場にしゃがみこみ、合掌した。
カン、カン、カン――しばらくそうしていると、警報機の音とともに、ランプが赤く雨の中に灯る。慌てて、傘を差し直して立ち上がる。目の前を青梅方面の電車が、猛スピードで通り過ぎて行った。
(J-CASTニュース編集部 竹内翔)