明治の自由民権論は戦後民主主義の先駆け
あえて付け加えておくが、この第2の帝国主義的道義国家を論じる時に昭和という時代のまだ多くの人物を論じなければならない。たとえば 東方同志会の中野正剛は、大正のはじめに『東方時論』で論陣を張っている。その後、中野は衆院議員となるが、ある時期までは言論によって道義国家を目指していた。しかし昭和のある時期からは政治の内実に絶望し 、国家改造運動でも大衆動員を目指しての活動を始める。中野と大川には多くの相違点があるものの反面で道義国家を目指すという点での共通点がある。
私のいう第2のタイプの国家像を検証することは、とりも直さず昭和の国家改造運動を総括していくことでもある。
そして第3の道、「自由民権を国の柱に据えた国民国家」である。この国家は明治初年代にも歯車の回転が変わったら起こり得た。板垣退助を中心とした民権運動の指導者たちの経綸は国家創設の軸になり得たと思われる。しかし結果的に山県有朋らの新政府の側に抑えられる形で自由民権運動は終息した。この期の運動は天皇を外交などの対外面ではその存在を認めるが、国内政治は人民主権を訴えている。したがって帝国主義的生き方とは一線を画しつつ、民衆解放の目は持っていた。それらの思想は植木枝盛や中江兆民らを見ていくことで裏づけられる。これらの思想は、大正期の吉野作造の民本主義などに組み込まれていくが、より本質的には太平洋戦争の後に具体的な形になっていくと見ていいだろう。あえて明治150年ということで、戦後民主主義はどのような系譜を辿ってきたのかを検証するときに、明治の自由民権論はその先駆的な役割を担ったと解釈できる。戦後民主主義は決してアメリカンデモクラシー一色ではなかったのである。
あの期の自由民権論はフランスのルソーの「民約論」などかなり高度の理論学習を身につけていた。そこで改めて中江兆民の思想を解剖して、それが明治、大正、昭和の民主主義にどのような影響を与えているかを確認していこう。この国は明治初年代のエネルギーを正当に見ていないというのが私の考えなのである。(第8回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。