しばらく体調不良で原稿が書けない状態が続いたが、少しずつ旧に復したので書き進めていきたい。明治維新時に、この国には四つのタイプの国家像を選択する可能性があった。その二つ目が帝国主義的道義国家ともいうべき存在で、その流れは孫文を支援した日本人の志士グループに見られるし、大正期の大川周明などの大アジア主義にもつながっていると記述してきた。
大川の思想的基盤は、二つの側面を持っている。その一つは軍内部の中堅幕僚との交流を通じて国内での改革を企図し、軍事主導体制をつくること。もう一つは 、日本のその体制を持ってアジアから欧米の先進帝国主義国家を駆逐するとの思想である。日本自体がアジアの盟主足らんとする考えが、大川の中にはあったと思われるが、しかしその点は研究者によっても明確にはされていない。大川の思想遍歴のプロセスをみると、日露戦争により先進帝国主義国家の仲間入りが可能になると信じていた。そのことは日本民族の潜在力の発露ともいうのでもあった。
敗戦時にアジア各地に残り独立運動に命をかけた兵士たち
先進帝国主義国家に伍していく道筋は、国内改造による軍事主導国家の確立にあるとの信念は、大川の昭和に入っての軍事による国家改造運動への動きの全てに関わっているのを見てもその意図が明確だ。
私のいう第二の道である帝国主義的道義国家は、つまりは大川の思想が軍事の補完役になったというのが歴史的事実であった。この点で大川の思想がどのように歴史に弄ばれたかはより精緻に確認しておく必要がある。そのことは本稿でも確認していくつもりである。
そしてこの帝国主義的道義国家は、もう一つの側面からも検証できる。太平洋戦争はむろん帝国主義間の戦いといった側面と、中国をはじめとするアジア諸国の独立戦争といった一面を持っている。日本はその面では国家として直接にアジア諸国独立への役割を果たしていない。だが敗戦時にアジア各地に残り、それぞれの国々の独立運動に命を懸けた兵士たちはまさに道義国家の実を示したといってもおかしくはない。このような兵士の存在が、明治維新時のもう一つの在りようを示したのである。
付け加えておかなければならないのだが、国家はこういう兵士たちに敵前逃亡の汚名を浴びせ、戸籍上も死亡扱いしていたのは道義国家たることさえも放棄していたといわれてもいたし方ない。国家は第二の道を全く選択するつもりがなかったということは、記憶されなければならない。